毎日チェックしている藤岡真氏の日記で、自分が以前「被告A」について書いた内容についてツッコミが入っているのを見つけてしまって吃驚ですよ。うわっ、これは何としてもすぐに弁明しておかないといけないッと思い、さっそくこの件について書いてみようと思った次第です。
ちょっと長いんですけど、以下、「六色金神殺人事件」と「被告A」についてのあからさまなネタバレがあります。御注意下さい。まあ、簡單に纏めると、前回の「達人」のエントリに續いてまた叉妙な書き方をしてしまってスミマセン、ということです。
まず自分がこの「被告A」を讀んでいる時に「六色金神殺人事件」を思い浮かべた理由というのは、藤岡氏がいわれるところの「仕掛けた側の企み」といったものからは離れたところにありまして、それを簡單に述べると、物語の舞台に使われている「ある言葉」の意味合いを仕掛けに用いて作中の大技を支えているところであります。
「被告A」でいうと、その言葉というのは「法廷」であったり、「裁判」という言葉であって、この作品は前のエントリでも述べた通り、「冤罪」で捕まった男の取り調べのシーンから法廷の場面へと續く流れがあって、それと併行するように自分の息子が誘拐された女性が犯人に翻弄される場面が描かれていきます。
で、この二つの場面が最後に交わることによって驚愕の眞相が明らかになる、という叙述ミステリの構成がある一方、本作の場合、この驚きをもたらす効果を支えているのが、上に述べた言葉の意味合いや通念を用いた技にあるのではないか、と思った譯です。
ネタバレをしてしまうと、「被告A」での「裁判」は本當の意味での裁判ではなく、事件の被害者の関係者達が「仕掛けた」「企み」であったということが最後に明らかにされます。しかしもしこのシーンで展開されている「裁判」が本来意味するものではないと讀者に気付かれてしまうと、最後の眞相がもたらす驚きも作者の企圖するものとは異なってきます。
で、折原氏はこの物語上での事実を讀者から逸らす爲に、また例によって非常に巧みな書き方をして、この「取り調べ」から「裁判」に到る場面を描いている譯です。
一方話を「六色金神殺人事件」に轉じると、この作品ではヒロインがようやく村に辿り着いたところで、「ようこそ『六色金神祭』へ!」という横斷幕を發見する。その後、この「祭」の最中ヒロインはトンデモない「殺人事件」に卷き込まれていくのですが、この作品の場合、作中で描かれる「祭」が一般通念でいう「祭」の意味合いからは大きく離れた「ミステリーツアー」という「イベント」であることが最後に明かされます。
いや、もう少し精確にいうとミステリーツアーが「六色金神祭」の一環として企畫された「イベント」な譯であって、ヒロインが卷き込まれた殺人事件は「祭の中で發生した突發的な事件」ではありません。そしてこのヒロインは讀者と同樣そのことを知らずに事件に卷き込まれていくという構造を持っているのですが、この作品の仕掛けを考えれば、ここでいう「祭」の意味合いが、讀者が頭の中で思い描いているそれとは異なることが分かってしまうと、最後の仕掛けはうまく効果を発揮しない。
そこで作者は、「ミステリーツアーの中の企畫のひとつ」であることを讀者の目から逸らそうとする一方で、これがイベントであることを讀者の前に指し示す爲に、登場人物たちの奇妙な行動が描かれている。
「被告A」における「裁判」、そして「六色金神殺人事件」おける「祭」というかんじで対比していただき、その言葉が持っている意味合いや通念を用いた騙しの手法、さらには「逸らし」(騙し)と「伏線」(ミステリ的なフェアプレイ)を同時に開示していく小説的技巧から、自分はこの二作に相通じるものを感じてしまったという次第です。
したがって、自分が先に書いたエントリは、藤岡氏が「バカミスを定義すれば~折原一 『被告A』を読んで」で述べられている、「六色金神殺人事件」のトリックが向かっているベクトルや「仕掛けた側の企み」といったところからは些か離れたところで、二つの作品を竝べてみたに過ぎません。
先のエントリで、
自分はこの仕掛けに何処となく、藤岡真氏の怪作である「あの作品」を思い浮かべてしまったんですけど、それはひとえにこのジャケ帶にもある「新趣向の法廷」ミステリの眞相がアレだったからだと思います。
と書いたところでも敢えて「新趣向の法廷」ミステリ、という具合に「新趣向の法廷」を括弧書きで記してみたのも上に書いたように、「法廷」の意味が作中の大技を支える騙しに大きく絡んでいるところを仄めかしたいと意図したゆえであります。
「被告A」に關していえば、折原氏の作品に期待していた叙述トリックの部分というより、この叙述の構造を支えている「法廷」の意味合いに騙しを凝らしているところが自分にとっては非常に愉しめたのですけど、「六色金神殺人事件」もまた叙述とはやや趣を異にするものの、その見事な大技を支えているものは、作中における「祭」の意味合いが讀者の普通に考えているところとは大きく異なり、またそのことを最後まで讀者から隱し通す「逸らし」の技法と、それでもその意味合いが異なるところを讀者に知らせようとする「伏線」というミステリ的フェアプレイの双方を実現させた小説的技巧にある。で、繰り返しになりますが上にも書いた通り、ここからこの二つの作品は似ているなア、と感じた、という譯です。
なので、
そうしたものとは、別のベクトルで小説を書いているつもりだったですが、佳多山さんとかtaipeiさんといった読み巧者の方々にも区別がつかないとなると、わたしの独りよがりだったようにすら思えてきてしまいます。
藤岡氏がここで述べられている「別のベクトルで小説を書いている」というところについては、自分なりに理解出來ているつもりです(多分……)。ただ今回の「被告A」のエントリで書いた内容については、……今讀み返してみると、確かにそういうふうには讀めないカモしれないなア、と氣もしまして、本當は上の記述も、
自分は「法廷」という言葉が本来持っている意味合いを、作品の大技を支える仕掛けに用いているというところに何処となく、藤岡真氏の怪作である「あの作品」を思い浮かべてしまったんですけど、……
みたいなかんじで書けば良かったのかもしれません。ただこれをやってしまうとネタバレになってしまいます、よねえ。さらに「何処となく」という言葉を添えて、自分がここで暗に示している共通點は、この二作の仕掛けが本來企圖しているもの(藤岡氏の言葉でいうとベクトル)とは異なり、別のところにあるのだ、ということを仄めかしておいたんですけど、やはりわかりにくい表現だったかもしれません。反省ですよ。
少しばかり言い訳をしてしまうと、これが現代のミステリを語る上での難しさだと感じています。古典であれば、物語の構造も單純で、「仕掛け」といえばひとつの事件にトリックが用いられていて、……というシンプルな物語だった譯ですが、特に「幻影城」以降のミステリにおいては、叙述トリックや、物語を構成する世界観、さらにはメタなレベルにまで踏み込んだ仕掛けなども含めて、それを高度な小説的技巧によって讀者を騙そうとしている譯で、作中における一つのトリックや技巧をもってしてその作品を論じてしまうと、あらぬ誤解を与えてしまう可能性は避けられない。
今回の自分が書いたエントリがマズかったところは、藤岡氏があの作品で指向したベクトルとはやや離れたところ――しかしそのベクトルの向かうところをしっかりと支えているところのひとつ(と自分が感じたもの)のみを取り出して他作品との比較を行ってしまったところでしょうか。やはりネタバレを回避しつつ、その作品の魅力と愉しみどころを短い文章に纏めるのは難しいなア、と感じた次第です。
本當は上の内容にバカミス考を添えて話を展開させようかとも考えたんですけど、自分があのエントリに書いたことは、バカミスとはやや離れたところなので今回は割愛、これについては藤岡氏が例として挙げられていた島田御大の二作品との比較が非常に興味深く、ここに自分なりの考えを整理してみたんですけど、これまた長くなりそうなのでまた機會があれば、ということで。
[2006/09/24 追記]
藤岡氏は本日の日記で「なにか苦言を呈したようにとられたよう」と書かれておりますが、いえいえ、そんなふうに感じた譯では決してなく、自分のいいたかったことがうまく書かれておらず、氏に誤解をさせてしまったことはマズかったな、とそれだけであります。何事も鍛練、もっとも文章術を磨いて、現代ミステリという難物の深奧を巧みに表現できる文章技法を身につけないといけないと痛感した次第で、また妙なことを書いていたおりには是非とも指摘していただければ、……とちょっと私信フウに纏めておきます。
ああ。なんか、わたしの一方的な思い入れで、勝手なネタバラシを書いてしまったようで、taipeiさんにも折原さんにも失礼なことになったかも知れません。わたしが言いたかったのは(もう充分すぎるほどお分かりだとは思いますが)、企てが先に示される謎を凌駕していたら、そこには意外性はないんじゃないかということなのです。
実物大(身長100メートル)のゴジラの着ぐるみによるSFXみたいなもので、如何に出来が良くても、レイ・ハリー・ハウンゼンのダイナメーションが、数十センチのミニチュアで造る世界には敵いっこないって想いなんです。
そう規定しないと、バブリーな物理トリックで、なんだって出来てしまうような気がするんですがねえ。
藤岡先生、コメントありがとうございます。
これ、上にも書いた通り、自分がちょっとマズい書き方をしていたところにも問題がありまして、妙な印象を持たせてしまったようで申し訳ありませんでした。ただ、これまた弁解になってしまうんですけど、ここが現代のミステリを語る上での難しさかなア、感じています。
複合技を凝らした現代のミステリを、ネタバレせずに、それでも作品の仕掛けについて讀む側がある程度思い浮かべることが出來るように、短い文章で纏めるというのがいかに難しいことか、プロの方はやはり凄いなあ、と思ったりしています。まあ、毎回ネタバレ注意、と書いて文章を書けば簡單なんですけど、そこには自分なりの美學もあったりする譯で(苦笑)。
自分は、企てと謎という考察から少し離れて、讀者の意識の流れに目を向けつつ、先生が挙げられていた島田御大の作品や他のバカミスと呼ばれている作品を論じてみたいと考えているんですけど、何かこういう論考めいたものって凄く文章が堅くなってしまうんですよねえ。このブログなりの文体でこれを書こうとしているんですけど、思いの外苦労してます。まあ、いつかものに出來たら、ということで。