以前紹介した上海編に比較すると、「探偵小説的上海案内」のような前振りがないぶん、些か物足りない氣はするものの、再讀しても石沢英太郎の手になる「つるばあ」ではやはり最後にジンと來てしまいます。本作の魅力はもう、單に編者である藤田氏の巧み技によるところが大きいといえるのではないでしょかねえ。
実際、収録されている各編はいかにも小粒で、大風呂敷の広げ具合も素晴らしいド派手な冒険譚もあるものの、ミステリとして見た場合には一寸、という作品ばかり。それでも一册を纏めて讀了したあと、さながら広大な滿州の地を旅したような感慨に浸れるところが秀逸。
収録作は、競馬に絡めて殺馬事件の眞相を探っていく大庭武年「競馬会前夜」、ネクラな傴僂男にロシアの踊り子という絶妙な取り合わせが何ともいえない群司次郎正「踊子オルガ・アルローワ事件」、中朝国境を舞台にした朝鮮人参探しの冒險譚、城田シュレーダー「満洲秘事 天然人参譚」、凡庸な日本人記者が殺人犯人にデッチ揚げられて大慌てする崎村雅「龍源居の殺人」 、兄妹の手紙のやりとりからとある犯罪が炙り出される宮野叢子「満洲だより」 、姫萌えの純眞男イワンが最後にはバカを見る渡辺啓助「たちあな探検隊」 、ダラダラと繰り出される黄金蟲の演説がトリップを引き起こす冒險譚椿八郎「カメレオン黄金虫」 、島田版「滅びの笛」に奇天烈な殺人事件を描いた島田一男「黒い旋風」 、そして故郷の喪失感と滿州という舞台が素晴らしい悲哀を引き出している傑作、石沢英太郎「つるばあ」の全九編。
氣に入った作品を挙げていくと、群司次郎正「踊子オルガ・アルローワ事件」は、ロシア娘の踊り子の父親が殺された事件を巡る物語で、この犯人と噂されているのがネクラの傴僂男。このネクラ男は、踊り子も所属している楽団の前座長の息子にあたり、激しくこの踊り子につきまとっていた樣子。
ハッキリとは書かれていないんですけど、つきまとっていたとはいえ肝いりのネクラ男ですから恐らくはこれも単なる噂に過ぎなかったと思われるものの、この傴僂は踊り子をコッソリ描いたヌード画を所有していたところから、當局は「せむしの唖の怪人」とマスコミ受けしそうなキャッチフレーズまでつけてこいつを犯人と認定してしまう。
しかし實のところ眞相はまったく違ったところにあって、最後に私は踊り子とともに眞犯人を指摘しえる決定的証拠を見つけるに到るのですが、件の傴僂男はブタ箱にブチ込まれたまま、冤罪を晴らされることもなく物語はジ・エンド。何とも惡魔的な幕引きが冴えている一作なんですけど、おきゃんで明るい踊り子と、悲愴な結末の対比も複雜な余韻をもたらしてこれまた素晴らしい。
崎村雅「龍源居の殺人」は、ムカムカしながら目を覚ますと、腹の下には女の死体が転がっている。さらに自分の手には女の心臟を突き刺した短刀が握られていたからさあ大變。昨晩のようすを思い起こしてみるもののスッカリ泥酔してしまったようで記憶がない。果たして滿州に赴任そうそう、トンデモない陰謀劇に卷き込まれてしまった主人公の語り手はこの事件の真相を探っていくのだが、……という話。
推理らしい推理もなく、件の主人公が犯人野郎の會話を盜み聞いていたところから眞相が暴かれるという、あまりに呆氣ない展開には目がテンになってしまうんですけど、いかにも混沌とした當事の滿州の一風景を切り取った作品世界には引き込まれます。
宮野叢子「満洲だより」 は、大連にいる兄と本土の妹とのノンビリとした手紙のやりとりが一轉、兄が送ったお金から思わぬ犯罪が明かされるという話。母親も交えて推理が展開されるものの、眞相は思いの外アッサリと明かされてしまいます。兄と妹の妙にほのぼのとした手紙の内容が何ともいえない雰圍氣を出しているところがいい。
我らがキワモノマニアの神にして悪魔主義の大家、渡辺啓助御大の手になる「たちあな探検隊」 は、気の弱い小市民こそ登場しないものの、考古學探險をする爲、滿州にやってきた語り手の私が地元の權威者から是非とも旅のおともにとお薦めいただいた男が、ちょっと頭のイカれたロシア人。
何でもこのロシア人、過激派から逃れたロシアの御姫さまが滿州に逃げ込んだという伝説を頑なに信じてい、廻りからは完全に狂人扱いされている。で、何だか氣がすすまない乍らも權威者のお薦めとあっては無碍に断ることも出來ないという譯で、語り手はこのロシア人を引き連れて旅に出るのですけど、最後の最後に極悪匪賊が來襲。
そして何と、その匪賊を引き連れた女ボスは、頭のイカれたロシア人が探していたお姫樣だった、というところから素晴らしいハッピーエンドで締めくくるかと思いきや、そこは悪魔主義の御大のことですからマトモな終わり方をする筈がありません。
島田一男「黒い旋風」は、冒頭、ペストが萬延し、黒い絨毯となって鼠が大地を突き進むところの描寫が凄い。當に寿行センセの「滅びの笛」を髣髴とさせる緊迫感溢れるシーンのあと、ペスト退治を目的とする軍人に同行した主人公は、死の病から逃れた地で酒池肉林の生活をするマヌケ連中の中に、かつて夜をともにした女を見つけてしまう。
ほどなくして女はペストに感染して御臨終、しかし解剖の結果死因はどうやらペストではない樣子で、これは誰かに殺されたに違いないと睨んだ主人公が、殺し屋の仕掛けた恐るべきトリックを暴くのだが、……。
このトリックがあまりに奇天烈で、想像するだにいかにも悶絶しそうな殺し方には戦慄が走ります。殺人事件が解決しても、女の肺を詰めた罐詰が紛失して、またまたペスト地獄が展開か、なんてかんじで気を揉ませながらも男の一途な愛情で締めくくるラストがいい。
そして最後を飾る石沢英太郎「つるばあ」は、上海編でいえば生島治郎の「鉄の棺」にも通じる、故郷の喪失とアイデンティテイを主題に据えた傑作。既に日本は戦争に負けて、あとは引きあげを待つばかりという空気のなか、主人公は淡々と職場を同じくするロシア人や中国人と日々の仕事に励んでいる。
そんなある日、職場で働いている一人の日本人女性が奇妙な密室状況から消失してしまうんですけど、どうやら彼女は中国人と戀仲にあったという噂もあったりして穩やかじゃない。果たして彼女は何処に姿をくらましてしまったのか、またあの密室の中からどうやって私の目を盗んで部屋を拔け出したのか、……という話。
ミステリなトリックはいかにもありきたりのものなんですけど、その事件の背後にある彼女の悲哀が謎解きの過程で明かされていくという趣向が冴えていて、引き揚げ船に乗りこんで大連の地を離れるラストシーンの余韻も最高。これは傑作でしょう。
編者の藤田氏によると作品は發表順に収録されているとのことなんですけど、主人公が最後には大連の地を去る「つるばあ」を最後に収めたのは大成功で、「満洲秘事 天然人参譚」や「たちあな探検隊」で展開される冒險譚によって滿州という舞台の雄大さを描き出し、その間に挿入された「満洲だより」 や「龍源居の殺人」 で市井の人々から見た殺人事件を披露することによって滿州の全體像を浮かび上がらせてみせるという趣向がいい。
そして終盤間近に「黒い旋風」でパニック小説めいた盛り上がりを見せるとともに、「つるばあ」のラストシーンで、歴史の中に消えていった一女性の悲哀にスポットライトを当ててみせる。この余韻の持たせ方は、「鉄の棺」で締めくくった上海編にも通じるものがあるところから、おそらくはこれが藤田氏の持ち味なのかなア、なんて思った次第です。という譯で、上海編を手に取られた方は本書も是非。南方編も氣長に待つことにしたいと思いますよ。