リーマン推理小説。
「この夏は推理小説を楽しむ!」というテーマで、「名探偵・星影龍三の全事件」や「鬼貫警部の全事件」をはじめとする鮎川御大ミステリの大特集で盛り上がっている出版芸術社なんですけど、キワモノミステリマニア的には、出版芸術社といえばやはりふしぎ文学館、ですよねえ。
このブログでも「ふしぎ文学館」なんてカテゴリでたびたび紹介しているシリーズではあるものの、もうひとつ忘れてはならないのが戸川昌子センセの「猟人日記」や泡坂妻夫氏の「死者の輪舞」などの「殿堂入りの傑作」をおさめたミステリ名作館でありまして、今日はその中の一册でも超マイナーな樹下太郎の「鎮魂の森」を取り上げてみたいと思います。
ただ本作、「猟人日記」や「死者の輪舞」などの超絶作品に比較すると内容の方はいかにも軽めで、ミステリというよりはミステリをネタにした大衆小説といったかんじ。物語は親父が社長を勤める食品会社の長男と、その長男であるガリ男の祕書をやっているおきゃん娘の二人の視點で進みます。
このガリ男はやり手の弟に比較するとどうにも仕事への取り組みも宜しくないのか、若社長と呼ばれる弟に對して、部長待遇の調査室長の地位に甘んじている。さらに惡いことに社内では性的不能者という噂まで広まっていて、そのネタは「むしろ伝説に近くなりつつある」。まあ、要するに社内ではかなり厳しい境遇にあるという譯です。
しかし祕書である冴子はそんな彼にすっかりホの字で、ある日彼のところに奇妙な脅迫電話がかかってきたのを好機とばかりに急接近。脅迫電話のことが氣になって暗い顔をしているガリ男から「映画にでも連れてってあげようか」なんていわれたものですから、終業ベルが鳴るなりデートの前にひとまず大急ぎで家に歸って着換えをしてくると宣言、「なに言ってるんだ。そのままで構わないじゃないか」なんて彼はいうんですけど、
彼女は、実は、服より下着を着替えたかったのだ。初々しい新妻のように貫一郎に従いたかった。男の愛情を――唐突な行為を期待していたということだ。
勝負下着で氣合を入れてくるという女心もくみ取れないガリ男でありましたが、しかし歸宅後に姉の香水も拝借して着飾った彼女はタクシーに乗っても彼に對して強烈なアプローチを開始、
冴子は車が揺れる度ごとに、それを利用して、自然な仕草で貫一郎に・默をすり寄せていった。
と樣々な小技を驅使して「あたし、部長さんが好きなんです」「あたし、今晩のあたしを部長さんにさしあげてもいいと思ったからなんです」と大胆な台詞を口にしながらも、實をいうと彼女、自分が處女ではないことをひどく氣に懸けておりまして、
「第一、あたしは純粹じゃないんです」
「どういう意味だい?」
「お古ってことですわ」
「……」
「部長さんにお古を売りつける程、あたし、図々しくありませんもの」
「……正直なひとだな」
處女にこだわるキャラ造詣がいかにも時代を感じさせたりするんですけど、実際本作の主題には戦争が大きく絡んでおりまして、件のガリ男を脅迫しているネタというのも彼が徴兵にかこつけて戀敵を殺したことに端を發し、彼は作中でこの殺人についても「戦争が惡い」みたいに嘯いていたりするんですけど、これはどう見たって二股かけてた女にブチ切れた男が戀敵を殺したという、私情に基づくものであることは明々白々。
出兵寸前に藪の中で女と戀敵がイチャついていたいたところを目撃してしまったガリ男は、二人が夜道を歩いているところを背後から突き飛ばして見事、男を殺害。放心している女に對して警察に突き出せるものなら突き出してみろと開き直ってはみたものの、その實心の中では出兵前に人殺しをしでかしてしまったことを大後悔、ガリ男は兩親に託した遺書の中で自らの犯罪をしたため、爾後これがトンデモない事態を引き起こしてしまう譯です。
復員してきたおりにその遺書は焚き火にくべて焼いてしまった筈だったのだが、今になって男からその遺書の内容をネタにした脅迫電話がかかってきたのは何故なのか。果たしてその犯人は、……という話。
遺書の行方を巡って推理が二転三転するあたりはいかにもミステリらしく讀ませるものの、本作の最大の見所はやはり、彼が女に語る戰地でのエピソードかもしれません。このあたりの描写は流石に作者の体驗に基づいているだけあって非常にリアルに描かれてい、中盤にこの逸話をもってきた構成は秀逸です。
しかし後半、ガリ男の犯罪が明らかにされてからは愛人宣言をブチあげたおきゃん娘が大活躍で、彼女は彼に内緒で犯人と取引をして大手柄をたててやろうと畫策するのだがしかし……。
鎮魂の森といえば靖国を連想してしまうわけですが、ここにおきゃん娘の哀しい最期を重ねたタイトルも素晴らしく、奔放な冴子の性格造詣と、運命に翻弄される主人公貫一郎の対比がいい味を出しています。そして總ての犯罪が女を交えたちょっとした錯誤から始まっているというところも自分好みで、物語に登場する女たちの悲哀や主人公の何ともいえない幕引きも複雑な讀後感をもたらす佳作でしょう。
ミステリ的な重みこそないものの、戦争を絡めた題材とどうにも時代を感じさせる登場人物たちの立ち居振る舞いなど、敢えて昔の作品であることを意識しながら讀む方が本作は愉しめるかもしれません。
同時収録の「お墓に青い花を」は、小市民のリーマン男がちょっとした悪戯心から歌のうまい戀人の名前でのど自慢に申し込んでみたところ、彼女は見事合格。すっかりやる気を出してしまった彼女はプロになることを決心、學校にも通ってみたもののしかしサッパリ芽が出ない。
歌に打ち込む女とリーマン男は次第に疎遠になっていき、男の方はあてつけのつもりで会社の專務の娘と浮気を始めてはみたものの、浮気が昂じて本氣に發展。婚約までしてしまったとなると邪魔になるのが歌手志望の本彼女。男は元作曲家で今はクラブでジャズピアノを弾いている男と畫策、女を自殺に見せかけて殺そうとするのだが、……という話。
小市民はどうあがいても報われないという、いかにも皮肉の効いた幕引きが素晴らしいこれまた佳作で、小市民ミステリに特有の悪魔的な味つけは稀薄ながら、これはこれで惡くないと思います。時代背景はいかにも昭和テイスト、しかし話の構成とネタは現代でも十分に通用する作品でしょう。
という譯で、出版芸術社のミステリ名作館においては他作ほどの衝撃はなくとも、このシリーズに収録されなければ決して讀むことは出來なかったというレアもの。刺激的な作品の合間に息抜きとして手にとってみるのがいいかもしれません。