迷宮の下町、幻の昭和。逆もまた眞なり。
泡坂妻夫氏の「春のとなり」に續いての昭和シリーズというかんじなんですけど、物語を現代に据えているゆえか昭和という言葉から連想される描写は意外にも淡泊です。タイトルから連想される下町の情緒や昭和の郷愁はあるときは登場人物の妄想によってデフォルメされ、またときには幻のようにぼんやりと描かれるといった按排で、斷片的に綴られる昭和の下町の景色が氏のユーモアや怪奇趣味と巧みに解け合っているところが見所でしょうか。
収録作のほとんどは氏の短編ではお馴染みの展開を踏襲し、ダメ人間の小市民が下町をブラブラしている間に異界へ迷い込み、……という話。いつも以上に淡泊な文章に味気なさを感じてしまうのですけど、しかしそこをぐっと堪えつつ中盤まで讀み進めていけば、物語の風合いは少しづづ色を變えていき、最後の「跨線橋から」で素晴らしい幕引きを迎えるというこの趣向は秀逸。この最後の仕掛けで評価が一変するところがまた堪りません。
収録作は、流行らない錢湯屋でウツラウツラしていた小市民が夢と現實のあわいをさまよう「昭和湯の幻」、子持ちの商売女と譯ありの紳士の交流を極上の怪談に仕上げた「飛鳥山心中」、韓流ネタで幽霊との交流を描きつつホーイホーイという脱力節がどうしても頭に残ってしまう「無窮の花」、スランプ碁士の立ち直りが美しい怪異へと繋がる「絵蝋燭」、下町の廃屋にさまよいこんだ男の末路が筒井康隆の「鍵」を髣髴とさせる恐怖編「廃屋」、相棒を失ったダメ藝人がこれまた異界へと足を踏み入れてしまう「奥座敷」、禁断の土地で蕎麥屋を始めた夫婦の怪異を人情噺テイストでさらりと描いた「まどおり」、小市民の紙芝居屋がこれまたふとしたことで異界へと足を踏み入れてしまう「紙人形の春」、チンドン屋の精神崩壞を描いた「クラリネット遁走曲」、そして老夫婦の會話が美しい餘韻を残す傑作「跨線橋から」の全十編。
一編一編は驚くほど薄味で、特に今回は昭和をテーマに据えたことも影響しているのか、倉阪氏の筆遣いもいつになく枯れまくっているところに注目ですよ。「事件」シリーズ(っていうんですかねえ)にも通じる、小市民がふとしたことをきっかけに異界へと足を踏み入れ、懐かしい幻の世界にズフズブとハマりこんでいくという展開の作品がほとんどを占めているところから、一気に讀むと何となく一本調子の印象を受けてしまうのですけど、本作は寧ろこの定番の展開に添えられたユーモアや人情、さらには怪奇や幻想の色合いの濃淡を愉しむべきだと思うのですが如何でしょう。
また「泪坂」路線とでもいうべき、人情噺の風格が大胆に押し出された作品が際だっていることにも注目で、「無窮の花」などはその典型。タイトルを一瞥して「今さら韓流ですかッ!」なんて感じてしまうんですけど、物語の主人公は韓国人の留学生ながら舞台は荒川、バイトに精を出す韓国人留学生が夢の中でほーいほーいなんて妙な聲を聞いてしまう。果たしてその掛け聲の意味は、という話。
怪異に人情噺フウのオチを魅せつつも、ほーいほーいという珍妙な囃子に吹き出してしまう自分はやはり倉阪氏の作風に「事件」シリーズの展開を期待してしまうからでありまして(爆)、ここは氏の過去作の印象は頭から取っ拂った方が作品の雰圍氣を愉しめると思います。
小市民系で個人的に一番ツボだったのは「奥座敷」で、物語はシニカル健という、藝名を聞いただけでも吹き出してしまうような男が主人公。この競馬中毒の小市民男はかつてWシニカルという藝名でコンビを組んでいたものの相方は自殺、以後一人で相方の自殺もネタにして浅草の舞台をこなしていたものの、芸の勢いは落ちるばかり。そんな彼がかつて相方と最後に飲んだ店を再び訪ねてみると、……という話。
新しい地下鐵駅が出來るから店をつくれば大繁盛、という不動産屋の口車に乗せられて、その場所に蕎麥屋を出した夫婦の受難を描いた「まどおり」も、冒頭の主人公が立ち食い蕎麥屋をはじめるまでの逸話が滅法面白い。このあたりのエピソードをさらりと地の文で書ききってしまうあたりは流石で、気立てのいい妻と少し頑固な主人公のやりとりや、小ギレするお好み燒き屋の主人公が壊れていくさまの描写など見所も多い佳作でしょう。
「絵蝋燭」の碁士、「紙人形の春」の紙芝居屋など、一藝に秀でた、というよりもその一藝しかすがるところがない小市民たちが織りなす怪談噺は倉阪氏の獨壇場。以前であれば鬼畜な結末ながら主人公にとっては救いである、みたいなややシニカルな幕引きが、今回は人情噺を下地にした何処か優しい雰圍氣で終わることが多く、このあたりがちょっと意外でありました。
もっとも鬼畜を書くなら徹底して、という倉阪氏の風格も勿論健在で、収録作の中では「廃屋」が最強。今日に限ってやたらと言葉が降りてくるのに氣をよくした俳句マニアの鬱病持ちがふとしたことから廃屋に迷いこんでしまう。
この廃屋で目にした人形の幻影に取り憑かれた語り手のわたしは再びここを訪ねるのだが、……ってこの悪夢的なオチのつけかたが筒井康隆の「鍵」っぽくてナイス。怖い、というよりは気味が悪い、というか。
で、老夫婦を主人公に据えた「跨線橋から」を最後に据えたのは大成功で、冒頭の「昭和湯の幻」から「クラリネット遁走曲」までで描かれた下町の迷宮と昭和の幻を、老夫婦の回想によって現實へと引き寄せるとともに、彼らが新幹線で下町を離れることによってすべてを過去の郷愁へと回歸させるという構成が秀逸。いかにも普通小説の裝いで極上の短編に仕上げた本作は當に「泪坂」から始まった人情路線の完成形ではないかなア、なんて感じてしまいましたよ。
上にも書いたように作品のほとんどは外連味もなく淡々と話が進むゆえ、續けて讀むとやや一本調子に感じられてしまうところがアレなんですけど、登場人物たちの記憶の中の昭和と下町の風景をさまざまな形で切り取りつつ、そこに獨特の小市民テイストや怪談の風格を添えているところはやはり孤高。そしてこの淡々とした展開を最後の「跨線橋から」で締めくくる技の巧みさ。
個人的には「跨線橋から」で下町の昭和的風景をこのようなかたちで回収してしまうという構成だけでも大滿足の一册でしたよ。まあ、ハジケまくった倉阪氏の作風を期待するとアレなんですけど、事件シリーズのユーモアを添えつつ定番の展開で怪談へと仕上げた佳作揃いでありますから、それぞれの物語に描かれたユーモア、怪奇、幻想の濃淡の違いを堪能しつつ、最後の「跨線橋から」の素晴らしい餘韻に浸るという讀み方がおすすめでしょうか。
「泪坂」と初期の「地底の鰐、 天上の蛇」、「怪奇十三夜」が好きな人はハマれるでしょう。個人的には結構この路線、好きですねえ。「跨線橋から」の雰圍氣だけでも一册仕上げることが出來るのではないでしょうか。でもそれじゃあ、昔からのマニアは満足しないカモ、と倉阪氏の新機軸に複雑な思いを抱いてしまうのでありました。