晩秋の悽愴。
これまた譯あって土屋隆夫と同様、最近、泡坂妻夫を讀み返しているんですけど、本作は第九十五回直木賞候補となった「忍火山恋唄」と、九十八回の候補作となった「折鶴」を含む大傑作選、となればまだまだ手に入れることも容易だろう、なんて思ってアマゾンで檢索かけてみたらこれも絶版ですかッ。もう一体どうなっているんだと思ってしまう譯ですよ。
本作は、一人の新内語りの人生に絡んだ殺人事件と怪談譚に本格ミステリの手法が冴え渡る傑作「忍火山恋唄」、悉皆屋の男性がしでかした若かりし頃の駈け落ち事件に、操りの主題を託して鮮やかなどんでん返しを見せる「駈落」、ミステリ色は薄味乍ら大人の男女の驅け引きを淡い筆致で描いた「角館にて」、そして時の流れに翻弄される職人たちを描きながらも収録作の中ではもっともミステリらしい完成度を誇る「折鶴」の全四編を収録。
いずれも素晴らしい餘韻を殘す傑作揃いなんですけど、その中でも自分の中では一頭際だっているのが「忍火山恋唄」でしょうか。物語は新内を語れる主人公と、温泉で出会った三味線彈きの芸妓の恋愛模樣に、冒頭、主人公達が立ち寄った古本屋で聞かされた幽霊話やひとりの新内語りの悲愴たる人生を絡めて、上質の本格ミステリへと昇華させた名品です。
温泉旅館で出会った美しい芸妓は、客である主人公が新内語りの出來る男だと知るや、樣々な歌を繰り出しては彼の技量を探っていくのですが、この場面が壓卷で、歌と三味線の音が高まるにつれ、二人の心が次第次第に惹かれていくさまを見事な筆致で描き出しています。
実をいうとこの作品、十年以上前に讀んだ時にはあまりピン、とこなかったんですけど、まあ、こうして齡を重ねてみて、……っていうか、中年になってようやっと本作のこの上質な風格を味わうことが出來たという次第です。
この作品に限らず収録作すべてにいえることなんですけど、大人の男女の機微というか、精細にして時に大胆な心の變轉をを見せる男女の心を描き出した作者の作品っていうのは歳をとってみないと堪能出來ないのカモ、なんて考えてしまうんですけど如何でしょう。大人の男だったら、キワモノマニアならずとも、旅先で出会った美人芸妓に「今晩、ここは吉原ということにしませんか」なんていわれてみたいもんですよ。
さて、天才的な新内語りの男と芸妓の過去を推理した主人公は、再び温泉宿を訪れるのですが、そこで彼女が語った男の哀しい人生とは、……というところへ、過去この温泉旅館で起こった殺人事件の謎を絡めて、中盤までの、抑制の効いた恋愛小説めく風格は後半、一氣に本格ミステリへと轉じていきます。この變轉が見事。
前半に少しばかり登場した幽霊譚の謎とともに、この殺人事件で使われたトリックを主人公が推理するという趣向なのですが、これが最後にもう一度意想外のどんでん返しを見せるところも鮮やかです。そしてこの眞相が明かされた事件に一定の結末が付されたあと、主人公と芸妓との會話が雪景色とともに美しい餘韻を殘すところも完璧で、大人の恋愛小説としても、また本格ミステリとしての一級品の風格を持った傑作でしょう。
「忍火山恋唄」が恋愛劇に本格ミステリを添えて展開される物語だとしたら、後半に収録された「折鶴」はよりいっそうミステリへと傾斜した作風で、過去に愛した女と、時の流れに取り殘された頑固職人の微妙な關係をほのめかしつつ、物語は自分の名前を騙る奇妙な人物の謎を軸に進んでいきます。
女將から旅先の民宿で宿帳に自分の名前を見かけたといわれ、女を連れていただろう、なんていわれても、主人公には一向憶えがありません。女將には離魂病じゃないか、なんて茶化されるんですけど、自分の名前を騙る人物が宿帳に殘したという住所から、彼は最近名刺を交換した人物の中にその謎の男がいるのではないかと推理する。
それとほぼ時を同じくして、かつて自分が愛した女性の店から若い娘が弟子入り志願でやってくるのですけど、果たしてこの娘と謎の男は関係があるのか、とかいうところも絡めて物語は進みます。その一方で、主人公と女が再會するや、お互いに妻も旦那もいるというのに、かつての思いが甦り、……というところは大人の恋愛物語に定番の展開ですかねえ。
しかしこの物語の主人公はこのいっときの氣持の高まりにずるずると引きずられることはありません。このへんが非常に淡泊。やがて伊豆のホテルから、部屋に忘れていったというブレスレットが郵送されてくるのですけど、これが件の、自分の名前を騙った人物のものであることは明らか。そこへ女の旦那が訪ねてきて、意外な眞相がこの旦那の口から明らかにされるのだが、……。
それぞれの人物の思惑と嘘が意外な事態を引き起こすという後半の展開は、さながら連城ミステリを髣髴とさせるものの、大きな違いは泡坂ミステリの場合、その転調が物語の筋運びと同樣、あくまでも自然体であるというところでしょうか。
連城ミステリの場合、人間關係からどんでん返しに至るまで、そのすべてに技巧を凝らしまくった人工的な雰圍氣が素晴らしい譯ですが、本作の場合、それは登場人物たちの抑制された心理にも似て非常に穩やか。
とはいえ、時の流れに取り殘されたものゆえに泰然とした主人公と、時代に翻弄されて悲愴な結末を迎える女の対比はあまりに酷薄。このあたりの一種悪魔的ともいえる結末が収録作の中では異彩を放っています。
そのほか、操りの主題が背後にいかされた「駈落」、ミステリテイストは薄味ながら男女の微妙な價値觀の違いを映し出した「角館にて」も心に残る佳作で、全四編、まったくの捨て作なしの傑作集。大人の恋愛といいつつ、抑制された筆遣いによって描き出される女の所作のひとつひとつが妙にエロっぽいところが作者の風格でありまして、あからさまでない故ににおいたつ、女の色香を堪能するのもまたひとつの愉しみ方でありましょう。まさに作者の代表作といえる一册だと思うんですけど、これが何で絶版になってしまうのかまったく不思議でなりませんよ。