台湾で最近、といってももう一月ほど前の話だと思うんですけど、土屋隆夫氏の「影の告発」がリリースされまして、それに伴って台湾ミステリ界における重要人物のひとりである詹宏志氏が土屋氏にインタビューした内容が公開されています。これって、権田御大が自身のサイトの日記「Mystery & Media」一月十四日に書いている「台湾の土屋隆夫特集テレビ番組」の内容の一部なんでしょうかねえ。
で、このインタビューの内容というのがなかなか興味深いものでありまして、氏が小説を書き始めたきっけが歌舞伎の台本書きだったりとか、自分も知らなかったことがテンコモリという譯で、訳してみました。尚、原文はこちら「詹宏志推理文學行旅.尋訪土屋隆夫」。
しかし何しろA4で十枚にもなる膨大な量でありまして、數回に分けて掲載したいと思います。讀了本のレビューもありますし。という譯で、さっそくいきますよ。
詹「土屋先生、欧米や日本であなたのように、長い年月をかけて創作された作品は少ない乍らも、その總てが素晴らしい推理小説であるという作家は非常に稀です。推理小説を書かれる前は、日本や欧米のどのような推理小説を讀まれていたのでしょうか。そしてどのような好きな作家や作品が好きですか。またそのような作家からの影響を受けているとお考えでしょうか?」
土屋「特に他の作家や作品から影響を受けてはいませんね。
確か三歳の時だったと思います。家族の者が私に平仮名を教えてくれまして、當時の日本の本や新聞というのは、難しい漢字であれば平仮名のルビがふられていたのですよ。そんなわけで、難しい漢字も少しづつですが覺えていくようになりまして、三歳の時に文字を覺え始め、五歳の時には女性雑誌も讀めるようになっていたというわけです(笑)。
小學校に入って、――日本では七歳で小學校に入るのですが――その頃には既にルビに頼ることもなく大人の作品も讀むようになっていました。
たくさん讀みましたよ。まず時代小説から始まって、その類の小説は、それはもうたくさん。その後は中学、大学に入って、生活費にも余裕はなかったし何処に遊びに行くことも出來なかったものですから、ただ東京に行っては神保町と呼ばれる古書店が軒を連ねた本屋街がありまして、そこでは安い古本がうずたかく積まれているわけです。そこで本を買って、たくさん讀みましたね。
そんななかからジョルジュ・シムノンといった作品も讀みましたし、そのほかの作品にも触れて深く感動したわけです。それまでのいわゆる探偵小説というのは、すべてありきたりの陳腐なものばかりで、探偵と犯人の対決みたいなお話だったのですが、シムノンの作品はまったく違っていて、そこに私はひどく感動したのです。
もし自分がこういったジャンルの作品を書けるとしたらこういうものがいい、と思いましたよ。日本でそれまでの探偵小説というと、まず謎があって、トリックがあって、その謎解きをするというのが探偵小説における第一目標でした。一方シムノンは人間心理に着目して、謎解きを主題に据えなくとも探偵小説となっている。そこに私はひどく感動しましてね。
卒業してからは、日本では就職事情が思わしくないということもあって、仕事に就くのも容易ではありませんでしたよ。それでもまずは仕事を見つけなきいけないということで、とにかく糊口をしのぐためにと化粧品会社へ就職しました。
日本には歌舞伎座と呼ばれる劇場がありまして、そこでは古典歌舞伎を上演していたのですが、私が就職した化粧品会社はその歌舞伎座と一緒に広告の仕事を行っていたこともあって、觀劇することが出來たんですね。ですから當時はそこで仕事をしていれば歌舞伎を見ることができたわけで、本來であればお金を払ってみるべき歌舞伎も、自分にとっては仕事だった。
そこで歌舞伎の演目を何度も目にしているうちに、歌舞伎の物語というのは非常に面白いな、ということに氣がついた。當時は專ら松竹という会社が專門に歌舞伎の演出を行っておりまして、彼らはアマチュアの台本コンクールのような企畫を行っていたんです。
で、ある晩、歌舞伎を見ているときに自分ももしかしたら台本をものにすることが出來るんじゃないかと思いましてね。そこで投稿をしてみたらそれが入選したわけです。ですからとりあえず歌舞伎の台本を書いて生計をたててみようと思い、自分にとっての努力すべき目標というのは、まずは台本を書いて、ということになりました。
ちょうど台本を書こうと勉強を始めたときに戦争が始まりましてね、もう台本どころじゃなくなってしまいました。私も入隊して、當時の私の仲間も八割がたは鬼籍に入ってしまった。それなのに私だけはこんなふうにまだ生きているというのは、彼らには申しわけないと思いますよ。
田舍に戻ってからは、特別これといったことはありませんでしたね。私の父は学校の教師をしていたのですが、その頃は既に母親と私を残して鬼籍に入っておりましたから生活はとても苦しかったですよ。仕事をしようにも何もなかった時代ですからね。
當時は闇市があるだけで、安い米を仕入れてはそれに高値をつけて賣り捌く、そんなふうにして簡單に大金を得ることも出來た時代でした。闇市で荒稼ぎして劇場を建てるような輩もいましたけど、そんな連中は劇場は建てたものの、どんな俳優を東京から呼び寄せたらよいものか分からない。
で、私はというと東京の歌舞伎座で仕事をしておりましたから、俳優もたくさん知っておりました。ですから彼は東京の役者を招聘するために私を雇って、東京から俳優たちに來てもらい、こちらの劇場で公演をしてもらったわけです。歌舞伎座以外にも、ほかの俳優や売れっ子の歌手などにも來てもらいましたよ。そんなふうにして生計をたてていたのですけど、一方でこの仕事もそう長くは續かないだろうなと思ってました。
ある日、「宝石」(日本の推理小説雑誌で、1946年の6月に創刊され1964年5月號をもって停刊。250期を発行し、日本の戰後推理小説の復興をもたらした)を手に取りまして、そこで懸賞の応募をやっておりましてね、當時は推理小説ではなく、探偵小説と呼ばれていたのですが、私は以前時代小説、探偵小説や台本を書こうと思っていたものですから、原稿用紙を埋めるだけで金が稼げるなんてこれはもう、何をもってもやらない手はないぞと。そこでシムノンの作品群を讀んだ時に思いついたアイディアを使って探偵小説を仕上ると、その懸賞に投じてみることにしたのです。
當時投稿した作品は「罪深き死の構図」といって短編小説だったのですが、それが見事に受賞しましてね。そのあとさっそく推理小説を書き始めたものの、そこに明確な目的があったというわけではなくて、ただ生活の為に書き始めたというわけです。私にとってそれは非常に氣樂な仕事で、小説を書けば生活が出來たわけで、世の中を見回してもこんなに氣樂な仕事はなかったですね。
ですから、何かの作品に感動したから小説を書き始めたというわけではなくて、生活を維持していくためだったということです。創作を始めてからややもして江戸川乱歩先生の作品を讀みまして、彼は日本では非常に有名な作家だったわけですが、彼はこんなことを書いています。推理小説というのは非常に優れた文學にもなりえる。日本には俳句があり、十七字を用いるだけで世界でももっとも短い詩をつくりだすことができるのだ。そして松尾芭蕉はその十七字のなかに森羅萬象を濃縮してみせたのだと。もしこの場所の智慧とその匠の心を用いるならば推理小説とて至高無上の文學作品たりえるかもしれない、――これを讀んだ時には深く感動しましてね。よし、ならば自分も當に推理小説を書いてやるぞ、と思いました。推理小説の世界にはそんなふうにして足を踏み入れることになったわけです。」
[追記: これ、乱歩の「一人の芭蕉の問題」からの引用だと思うんですけど、手元に原文がないので、とりあえずそのまま譯してしまいました。原典を見つけ次第、修正します]
詹「シムノンを挙げられましたが、彼はベルギーの作家で、作品はフランス語で描かれていますよね。私には千草検事にも何処となくシムノンのような雰圍氣があるように思えるのですが、シムノンはたったの七日で一編の小説を書き上げてしまう一方、あなたは十年で二編の作品のみを書かれている。大きな違いがあるわけです。
記憶を辿ってみて、例えば英国のジョセフィン・テイと比較してみましょうか。彼女は戰前の1929年に「列のなかの男」を、そして1952年には「歌う砂」を發表し、十一編の作品を書きあげたわけですが(時間ということでいえば、あなたは彼女よりも更に惜墨如金ということになりますね)、その数は多くはないとはいえ、その質と功績には驚くべきものがあります。
私が特に思うのは、あなたと彼女の作品はすべて推理小説の謎解きの中に文學の濃厚な香気が感じられるということです。先生はテイの作品は讀まれましたか?」
土屋「はい、讀みました。ただ今はもうはっきりとは覺えてはいませんね。それでも「時の娘」だけは絶對に讀んでいる筈です。ただ私自身は基本的に外國の作品の影響は受けていませんね」
詹「大戰後の日本推理小説の興盛は、欧米の推理小説の黄金期とは半世紀の隔たりがあります。欧米の黄金時代は十九世紀末に始まり、推理小説の形式、技巧、見事なトリック、或いは社会現象の発掘など、欧米の作家が為し遂げたことは非常に多岐にわたり、そのほとんどはされ尽くしてしまったといってもいい。
日本の推理小説は、本格派にしろ社会派にしろ、すでに遠い過去に推理小説が衰退してしまったなか、どのような獨自の特色をもって推理小説を発展させていったとお考えですか?
世界の推理小説が発展するなかでも日本はもっとも勢いのある国ともいえるわけですが、国内の讀者のみならず、国際的に見ても獨自の位置にあります。日本の推理小説と欧米の推理小説に異なるところがあるとすれば、それはどのようなものであると思いますか?」
土屋「多くの人が私を本格派の作家だというのですけど、本格派とは謎解きが中心のものであって、だとすればトリックのアイディアは出尽くしてまったのでしょうか?
多くの作家が密室殺人を書きますが、新味はありません。そして本格派には開拓するところもなく、新しいものもすでにないということであれば、本格推理小説はこの世界からなくなってしまうということになります。だとすれば、もう何十年も前にそういうふうになっているはずです。
以前、日本には「新青年」(日本の雑誌で、1920年1月に創刊され1950年七月に停刊。四百期を発刊し、日本推理小説史においても重要な地位を占める)という雑誌がありまして、一册すべてを推理小説の内容を主にしておりました。
毎年誰かが紙面でいっていましたよ。推理小説はもう終わりだ!探偵小説はなくなってしまった!しかしそれから探偵小説は滅びることもなく今に至り、その源が途絶えることはありませんでした。何故でしょう?私の作品を例に挙げれば、私はいくつかのトリックを考案しそれを小説の中で使っていますが、それらはいずれも、誰も試みたことのないものです。
いってみれば、私はそういったトリックを思いついた一人に過ぎない譯で、日本には一億一千万の人口があるとして、そのすべての人が推理小説を書いたとしたらどうなるでしょう。一億一千万のトリックをうみだすことが出來るということになりませんか。ですから人間の思考が無限である限り、トリックのアイディアも決して尽きることはないと私は思いますね。
考えることが出來ない人は書くことも出來ないでしょう。しかし考えることが出來る人には無限でしょう。推理小説は私にとってはまだまだ十分に期待の出來るものですし、使われていない斬新なトリックもまだたくさんありますよ」(續く)
[追記 06/01/06:
歌舞伎に脚本というのも妙なので、台本という言葉に変更してみました。]