新本格の宿敵は、蛇のように、ネチネチと、シツッこく。
思うところあって昔のミステリの評論とかを讀み返したりしてるんですけど、本作は當事目を通したとたんにブチ切れてしまった一册。というのも、當事ハマっていた綾辻センセをはじめとする新本格を明確にクズだと斷じているからでありまして、……ってまあ、はっきり「クズ」という言葉を使っている譯ではないんですけど、その言説は明らかに「俺はこういう若僧が書いたお子チャマミステリは好きじゃない」という意志がビンビンに傳わってくる過激さで、讀むものを圧倒するその憎惡はかなり強烈。
まあ、當事は新保氏の發言にブチ切れてしまった自分もこうして歳を重ねてみれば、最近の若者バンザイ的な風潮に何だかなあ、と思ってしまっている譯で、當事の新保氏が抱いていたであろう不満や危機感と何となく分かるカモ、……と思うようになりましたよ。自分は絶對に「殺人ピエロの孤島同窓会」みたいな作品が本になることは支持できませんからねえ。
まあ、この最近の風潮とと綾辻センセたちが牽引していた新本格ブームとは全然違うという気持もあるにはあるんですけど、何しろ大森氏のような重鎭が明確な意志を持ってああいう本を賣ろうとしているということ、さらには若いというだけで作品の出來具合には目をつむって賞をあげてしまい、その裏で自分のような人間が讀みたかった作品(「ツキノウラガワ」とか「華奢の夏」)がリリースされないという状況にはやはり、これはかなり自分のようなマニアには危険、という意識を抱いてしまうのでありました。
きっと當事の新保氏も「俺が讀みたくないようなお子チャマミステリがこの後ジャカスカ出るようになったらオイ、ちょっとヤバくないか」というふうに考えたんだろうなあ、と思ったりするのでありました。
で、新保氏は當事、新本格の作品に對してどんなふうにいっていたかというと、こんなかんじ。ちなみに節のタイトルは「新本格は本当に新しいのか?」。まず産経新聞に発表した文章を引用して、新本格全体の印象を述べているのですが、
お屋敷での殺人、退屈な関係者の尋問、エキセントリックな素人探偵の登場、結末で一同を集めてあばかれる意外な真相。乱歩のいう新本格作家たちが、意図的でなくても結局否定するようになったこれらの要素を、現代日本の『新本格』の若手たちは、むしろ積極的に取り入れようとしている。『新本格』というよりは、いっそ『レトロ本格』とでも名づけたらいいのではないか。
近年、日本ミステリーの見るべき作品は、ほとんど冒険小説系統にしかないという状態がしばらく続き、旧タイプの探偵小説を懷かしむ気持も読者側にあったのだろう。加えて、各社の新書判シリーズの創刊などに伴い、多くの書き手が必要とされ、若手層の作家志望者が青田買いされるようになったという事情もある。
『読者の方も、若いうちっていうのは、人物のキャラクターの面白さっていうのがなかなかわからない。だからどうしてもトリックの華麗さとか不思議さってものにひかれて読む』と、佐野洋はある対談で語ったことがあるが、六十二年の綾辻行人に続く新人たちは、こうした讀者がそのまま作家になったしまったと言えよう。從來の作家なら、デビュー年齡に達する前にトリック志向を卒業していたものだ。
今讀んでみると、かなり頭を抱えてしまう指摘も結構ありますよ。引用中ではありますが、佐野洋氏は「若いうちっていうのは、人物のキャラクターの面白さっていうのがなかなかわからない」なんていってますけど、今の作品では寧ろキャラ立ちが重視されている譯で、そうなると今度はここで批判されていた新本格派の原理主義者はそういった作品を「君とボク派」といって揶揄している。何だかなあ、ですよ。
で、それぞれの新本格作家に對してのコメントも相当に手嚴しく、歌野「葉桜」晶午氏に關してはこんなかんじ。
綾辻氏と同じく、いずれも島田荘司の推輓によって登場してきたものだが、歌野氏は書きかけの処女作のトリックを島田氏に見破られてしょげ返ったという。そのトリック自体の質を云々しないまでも、トリックを見破られたとたん作品全体が瓦解してしまうような小説作法そのものが、あまりに古いというべきだ。
本当に歌野氏がしょげ返ったかはまあ、あくまで伝聞情報に過ぎない譯で、何ともいえないものの、作家本人がしょげ返ったからといって作品全体が瓦解してしまったというものでもないでしょう。あくまでその作品を評價するのは讀み手なんですから、トリックが見破られたからといって作品全体が瓦解してしまっているかどうかを判断するのはあくまで讀み手なんじゃないかなあ、とか思うのでありました。作者がしょげ返ろうが關係ないですよ、自分的には。
で、我孫子「殺戮」武丸氏に關しては、
我孫子氏がユーモア・ミステリを標榜する志はよしとするも、若い作者には最も困難なジャンルだろう。率直に言って氏のわざとらしいユーモアは少しもおかしくないし、コミック調にしたためにトリック自体の滑稽さに書き手自身が麻痺しかねない危險性もある。秀れた推理小説には(というよりすべての娯楽小説には)必ずユーモアがなければならないと私は考えるが、その中でことさらユーモアを売り物にするには、それが自然に滲み出る年齡的な成熟が特に必要なのではないか。
ここでも「年齡的な成熟が必要」と若いもんはケシカラン的なテイストが炸裂。で、飜って今はどうかというと、「若くなきゃダメ」ですからねえ。時代も變わったものです。
さらに法月「生首」綸太郎氏について、
……しかも『誰彼』は、総合点では前作を凌ぐとはいえ、『雪密室』ではエラリイ・クイーンでも後期以降の作品(『クイーン警視自身の事件』)を偲ばせたのに、小説形式では初期の国名シリーズの方向に退化している。作を重ねるごとに逆進化するという不思議な作家で、このままではやがてヴァン・ダイン以前までさかのぼってしまうのではないか。
ところでミステリっていうのは「進化」していくものなんでしょうかねえ。或いは「進化」と内容は似ているものの微妙に違うんですけど、ミステリという形式形態は「発展」していくものなのか、と。
勿論ここで新保氏がいっている「進化」という言葉の意味と、自分が頭の中で漠然と考えている語義が全然違うという可能性もあるんですけど、例えばクイーンの作風の模倣が退化だとしたら、ロジック地獄の迷宮が讀むものを眩惑させる氷川センセの作風も「退化」になるのか、とか、ポーが持っていた探偵小説のエッセンスを抽出してみせた島田御大の本格ミステリー宣言の實踐作「奇想、天を動かす」なんていうのは、クイーン、ヴァン・ダインどころかポーにまで「退化」してしまった作品ということになるのか、とか、まあ色々と考えてしまう譯ですよ。
まあ、そんな次第で内容自体はかなり首を傾げてしまうところも多いものの、昭和五十年代に焦点をあてて島田御大や笠井氏、さらにはハードボイルド系の作家を論じた考察はなかなか興味深い。また連城氏と赤川氏、笠井氏と北方謙三氏という、一見風格の異なる作家の二人を取り上げて論じてみたりするところも愉しめました。
本作がリリースされたのは1990年、今からもう十年以上の昔の話なんですけど、作者の新保氏は「平成元年になっても」推理小説に關しては「この憂鬱な気分はどうしたものか」と述べています。気が滅入ってしまう理由として、「新人賞や出版点数の異常な増大がある」という。まあ、その出版ブームは同時にリバイバル・ブームを巻き起こして、「入手困難だった名作が再文庫化されるという思わぬ余沢ももたらしている」と述べています。
ただ「これら復活した作品群があの時に匹敵する衝撃力を持っているかどうか」と危惧しているんですけど、古い作品を讀み返して、或いは手にとってみて感じることは、このブログではキワモノミステリとして取り上げている作品のあまりに強すぎる個性は現代に馴染まないのかも、ということでして。
まあ、自分のような奇特なマニアもいるには違いないんでしょうけど、これはもう絶望的に少數派な譯です。あまり個性的な作品というのはやはりマニア向けになってしまうのも仕方がない。で、多分自分のようなマニアは本が出れば買うには買うんですけど、メガヒットなんていうのはとうてい望めない。だから出版社としてもリリース出來ない。儲からないから。これがまた洋モノだったらまた状況は違うんですけどねえ。
……とこの話題を語り出したら結局愚癡ばかりになってしまうので(爆)、話を元に戻しますと、最後のあとがきは作者の新保氏のキャラが垣間見えてナイス。何しろ冒頭の一節からして、
何を隠そう、わりあい根にもつ性格である。だから何年も前のことなのに、まだ憶えている一件がある。
から始まり、ある酒場で自分が推理小説評論家であると知人の知り合いに自己紹介したらその男曰く、「あ、オレ、評論家ってあんまり好きじゃないんだよな」といわれてブチ切れてしまったというエピソードが語られています。
なぜすぐ毆り飛ばしてやらなかったのか、いま思い出しても悔やまれる。
……初対面の相手に対して、これがどんなに非常識な言辞であるか、「評論家」というところを、公務員、税務署の熟達達、写真週刊誌の記者、芸能レポーター、地上げ屋など普通の職業に替えてみれば明瞭だろう。面と向かってひとの職業を侮辱していいわけがない。
それなのに、周囲でこの非常識男をたしなめる気配もなかったのは、評論家というのが公然と嫌ってもいい數少ない職業の一つだからだろう。いわく、自分では何も創造できないくせして、ひとの苦心の産物を好き勝手にあげつらう、卑しむべき人種であると。
だがちょっと待ってほしい。だったら、てめえら、自分で評論書けないくせに評論家の悪口を言うんじゃねえ、とお答えしたくなる。
しかし最後の一節を認めるとすれば、ミステリも書かない書けないくせにミステリの悪口をいうんじゃねえ、ということになってしまうのでとても贊同は出來ない、ですよねえ。評論家が「創造もできない」っていうのは大間違いで、評論という文章も立派な創造だし、それぞれの評論家の風格もある譯で。個人的に新保氏のネチネチとしつっこい文章から釀し出されるイヤ感はかなり個性的。
本作はどちらかというと作家の作風の分析という趣向なので、作品の讀み方、愉しみかたを提供するというコンセプトではない故アレなんですけど、新本格は當事こんなふうにけなされていた、ということを知る為の一次資料としての價値は高いのではないでしょうか。
千街福井といったミステリ作品の愉しみかたを提供することを一義に錬られた文章とは大きく異なり、攻撃的な言説が光る、ある意味キワモノ的な一作。新本格以前のミステリと當事の新本格がどのように受け取られていたのかを知るには貴重な資料となりえる一册といえましょう。恐らく絶版ですけど、後半の新本格に言及した部分だけでも目を通す價値はあると思いますよ。