市井の人々のふしぎ体験。
怪奇幻想、探偵趣味、お伽話と樣々なテイストがテンコモリ、まさに「ふしぎ」としかいいようがない三橋一夫の小説集。
この作者の名前、アンソロジーなどで見かけたような記憶はあるものの、こうして一つの作品集として讀んでみると、とにかく抽斗の多さに驚きます。
お伽話ふうでありながら何処かユーモラスでもの哀しい、それでいて結末のオチがちょっと不氣味ともいえる「腹話術師」、トーマス オーウェンのような不氣味な雰圍氣と展開が素晴らしい「猫柳の下にて」、ミステリ風の展開が最後に異樣などんでん返しとなって読者に眩暈をもたらす「達磨あざ」、タイムトリップと邯鄲の夢が美しい融合を果たした「駒形通り」など、一作一作は怪奇幻想や探偵小説ととりあえず分類は出來るものの、こうして一册に纏めてみると、まさにこのシリーズのタイトル通り、「ふしぎ小説集成」としかいいようがない、獨特の風格が感じられるからこれまたふしぎ。
そしてこの発想の巧みさに反して語り口が軽妙なところがいい。例えば「親友トクロポント君」は、ある日突然白ウサギの紳士と友達になった、なんて言い出した夫を妻の視点から描いたもの。夫がいう白ウサギの紳士トクロポント君の姿は見えないのだけども、頭のイカれた彼に合わせて演技をしてみせる妻娘と夫とのやりとりが微笑ましい。
近所からは「あそこの旦那さんはキ印だから」なんていわれたり、精神病院に相談に行った妻が患者と間違われて入院させられたりといったエピソードが軽妙な筆致で描かれるのですが、登場人物である市井の人を見つめる作者のやさしい視線が感じられるところが素晴らしい。「ばおばぶの森の彼方」も貧乏で貧乏でタマラない家族のようすを淡々と描いた作品ながら、その點が際だっている佳作でしょう。
そして何となくドッペルゲンガー系のネタが多く感じられるのは氣のせいでしょうかねえ。例えばタイトルもそのものズバリの「私と私」は、妻と娘の三人で暮らしていた貧乏家族を夫である私の視點から描いた物語。ある日、突然私が二人になってしまうのですが、それでも二人の私を交えた家族は淡々と生活を続けます。私が仕事をしている間、もう一人の私は何をしているのだろう、と外に出かけていったもう一人の私が見たものは、……。これまたお伽話のようなやさしい幕引きが非常に心地よい作品です。
「鏡の中の人生」は或る日、鏡の中に入ってもう一つの人生を始めた私の物語なのですが、ここに語り手である私の、義母に對する祕かな恋慕を絡めた展開が見事。鏡の向こう側の世界とこちらの世界との差異に煩悶とする私はついにその鏡を、……という終わり方も定番乍ら、昔の短編らしい堅實な纏め方が好印象。
「戸田良彦」も、同じ日に生まれて同じ名前の男に出會ってしまった私の苦悩を描いた話なのですが、このテの話では、もう一人の同姓同名の人物がおいしいところを總て持っていってしまうというのは御約束。やがて總てがイヤになった僕が選んだ行爲は、……と何だか散々な結末ながら、不思議とエグいかんじがしないのはやはり作者の語りの巧みさの故でしょうかねえ。
變に飾った文章ではないからこそ、怪奇幻想譚では最後に不氣味な餘韻を殘す話というのもあって、例えば「達磨あざ」は醫者の夫を持つ看護婦の私の日記という構成で、そのあたりに素晴らしい効果を見せた作品です。
ある日、私は藥剤師の助手である若い男とキスしているところを夫に見られてしまいます。夫の視線を氣にしながらも、気弱な年下男を誘惑した私はどんどん大胆になっていき、……という後半で私の過去が明らかにされ、それがトンデモない結末に繋がるのですが、最後の一文でそれまでの總てをひっくり返してしまうという強引さがいい。私の素直な語りがこの一文で何ともいえない不氣味さに反転するという構成が見事に決まった佳作でしょう。
ふしぎなお伽話という點では、表題作の「腹話術」はかなり強烈な印象を残します。ヨーロッパが舞台で、電車の中で知り合った男から聞いた男が奇妙な話を始めて、……という物語。醉っぱらった男が代理石像に惡さをすると、果たしてその彫像に口を奪われてしまいます。口をなくした男はそれから腹話術を會得して寄席芸人となってヨーロッパをこうして旅しているという。男の語りを、單なる法螺話として聞いていた私が最後に見たものは……。
また「久遠寺の木像」も、ふしぎとしかいいようがないお話で、何ともこの作品の印象を説明するのが難しい。雨宿りにと訪れた寺で不思議な木像を見た私に、寺の僧侶がその木像の謂を語るという物語。
才能はあるけど、天才とキ印は紙一重というかんじで、あちらの世界に突き拔けてしまった人形師の父親と、その息子兄弟の話なんですが、兄弟の確執とキ印親父が最後の最後でこの不思議な木像の姿へと結実するシーンは幻想的。それでいてひとつひとつの場面の描写に固執することなく淡々と描いている為、小説というよりはお伽話といいたくなる餘韻を殘します。
實際、そのままお伽話を題材にした作品もあって「帰郷」はショートショートといえるほどの短さながら,出征を終えて故郷へと帰ってきた男の姿を描いたもの。最後の最後でその眞相が明かされるミステリ的な趣向は當にアレ系。
怪異に巻きこまれた市井の人の語りで淡々と進む「駒形通り」は何となく半村良の短編を髣髴とさせ、個人的にはかなり好みの一品です。駒形通りをブラブラ歩いていたわたしがふと通りを振り返るとそこは砂漠になっていて、……という話。二十代の青年だったわたしは老人になっていて、どうやら自分は藤原時代の大昔にタイムスリップしてしまったらしい。
老人のわたしはこの世界では、片田舍の乞食小屋に住む占い師で、わたしは未来の出來事を語りながら生きていくことを決意します。未来のことを話しても誰も信じてくれないのは當然で、周囲の人間にはキ印認定されてしまうわたしでありましたが、英語の歌を歌ったり、会社の慰安旅行用におぼえた手品を村人に見せたりしていたのが役人に見つかり、磔刑にされることとなる。彼は磔にされて殺される最後に、かえでという少女の声を聞き、……。邯鄲の夢を見ていたわたしが現実に戻った後でその夢を記憶を回想するシーンが美しい。タイムスリップものには無條件に泪を流してしまう自分としては、當に大切にしたい一編です。
とりたてて大きなネタを仕込まなくとも、語りの巧みさだけで話を纏めてしまう手腕が素晴らしく、ショートショートの「歌奴」や「泥的」などはそんな作者の技が冴える掌編といえるでしょう。
特に「泥的」は泥棒に入った家の家族のやさしさと、泥棒男のやりとりが何とも微笑えましい。「歌奴」は、かつて有名な美妓だった老婆を私の視點から描いた掌編で、残酷な時の流れをさらりと描きつつ、それをまた作者のやさしいまなざしとともに美しい情景のなかへと溶けこませたこれまた佳作です。
お氣に入りの作品を挙げるとすれば、怪奇幻想譚として素晴らしい完成度を見せる「猫柳の下にて」、そしてミステリ的な仕掛けが冴える「達磨あざ」「帰郷」。更に幻想譚として美しい「駒形通り」、「ばおばぶの森の彼方」、「私と私」あたりでしょうか。また市井の人々の物語乍ら幻想譚としての完成度も見逃せない「親友トクロポント君」も傑作でしょう。
この第一巻は、巻末に収録されている東雅夫の作者解説がこれまた素晴らしい出來映えで、日下氏の作品解説とともに、以前取り上げた「渡辺温―嘘吐きの彗星 叢書 新青年」と同樣、作者への敬意と作品への愛情が感じられる一册に仕上がっています。
とにかく面白い、素晴らしい短編を讀んでみたいという御仁におすすめしたいふしぎワールド。二巻、三巻もそのうち取り上げようと思いますよ。
[01/27/06 追記]
第一巻なのに、<2>と書いてTBしてしまいましたよ。大莫迦です、自分。