語りの鬼。ただ人によってはかなり微妙、でしょうかねえ。
第12回角川ホラー小説大賞短篇賞受賞作。
前に讀んだ「チューイング・ボーン」では某選考委員(ルンルン)のベタ襃めがかなりアレだったので、本作も同じだったらイヤだなあなんて考えていたんですけどまったくの杞憂でありました。
ただかなり癖があるというか、讀者を選ぶ作風のような氣がします。本作に収録されているのは全部で四編、それがおしなべて雰囲気も語りも大きく異なる為、この作品集だけをもってしてこの作家をこういう作風と決めつけることは出來ません。ただ四編全てに共通しているのは、あらすじよりもまずその「語り」で讀ませる作品であるということでしょう。
例えば最後に収録されている「あせごのまん」は全編方言をフルに使った語りでよく分からない物語をゴリ押しで進めてしまいます。その語りから民話ふうの話かと思いきや、時代背景は現代のようでもあり、……というふうにその強引な語りだけで物語の背景にあるものすべてを解体してしまっているんですよ。
またタイトル作にもなっている受賞作「余は如何にして服部ヒロシとなりしか」はその不條理なかんじが安部公房のようでもあり、それでいて妙に輕妙な語りが中盤から恐怖に轉じていくあたり、個人的にはかなり好きな作品。ただこれ、殆どの人には「譯が分からない」「意味不明」とバッサリ切られてしまうような話ですねえ。
實際、あらすじを纏めてみると身も蓋もないような話なんですよ。道を歩いているところで、同級生のお姉さんのお尻に見とれてしまった「僕」は彼女の家に行くのですが、同級生が歸ってくるのを待っている間にお姉さんは御飯を食べていけ、風呂に入れとすすめます。しかしその風呂場には緑色のペンキが塗られてい、床には埃がびっしりと積もっている。僕は風呂に入らないでやり過ごそうとするのですが、裸になって入ってきたお姉さんにいわれるまま、彼女の體を洗い、一緒にお風呂に入ってしまいます。
結局同級生は歸ってこず、僕はその夜を何故かその家で過ごすことになるのですが、その間、僕は家の母親に魚の目を取ってもらったり、取り憑いたものを祓ってもらったり、人魚の肉を御馳走になったりします。
そして僕はひょんなことでその家に住んでいるナベという少年を殺してしまい、そのことをお姉さんに知られてしまったので、もうこの家から出られることは出來なくなってしまいます。庭には鴉が群れていて、家の天井裏には何者かが潛んでいるらしく、「人を殺しておいて逃げるのか」とお姉さんに脅迫された僕は、家族とともにこの屋根裏に潛んでいるのが何者なのかを調べることになり、……ってこのあと、夢オチみたいな出來事が續いて一體何が何やらという展開になり、最後はもう譯が分からない終わり方をするんですけど、この結末は、……激しく微妙ですねえ。ただ、自分はこういう奇妙な味の小説っていうのが大好きなんで全然オーケーなんですけど、普通の本讀みの方にはサッパリではないでしょうか。
續く「浅水瀬」はタイトル見ただけでネタはバレバレ。ですからどれだけこのネタの中で語ることが出來るのかということにかかっている譯ですが、物語はバイクで事故を起こしてしまった主人公が目を覚ますところからが本筋。気がつくと男が傍らにいて奇妙な怪談語りを始めます。更に男が二人加わって奇妙な怪談を語り始めるのですが、主人公には譯が分からない。やがて本命の老婆が現れて、……という話。この中では片腕をなくした幽霊の話がかなり怖い。
上にも書いたようにタイトルでこの怪談語りをしている男たちが何者であるかは讀者も分かってしまっている譯ですから、後はこの中の怪談話をどれだけ愉しめるか、でしょう。自分は結構愉しめましたよ。
「克美さんがいる」は身内が事故で突然死んでしまった家族が葬儀はどうするだの、預金通帳は何処にあるだのということでもめながら中盤までバタバタと進むのですが、最初からこの語りには妙な違和感がつきまとっておりまして、予想通り、この語りそのものにアレ系の仕掛けを施した小説でありました。これもまた作者の語りの技巧が光る短篇でしょう。ミステリ好きの方がこういう仕掛けは愉しめるかもしれません。
という譯で、純粋に怖い話、というのは少なくて、寧ろ作者の技巧的な語りを堪能する作品集でしょう。ただタイトル作品の不條理なお話が物語としての體裁をなしているのかどうかは微妙ですし、「浅水瀬」はタイトルでネタバレ、「克美さんがいる」はホラーというよりはミステリ寄りの技巧に寄り掛かりすぎたきらいがあり、……と缺点はいくらでも挙げられます。それでも自分はこの語りの力だけで強引に物語をつくりだそうとする作者の力業を支持しますよ。次作でどんなネタを出してくるかに期待したいと思います。