お氣に入りの昭和ミステリ秘宝シリーズの一册の中に収録された一編。
物語の舞台となるのは昭和八年の神戸で、探偵役を務めるのは、作者の推理小説ではお馴染みの陶展文です。陶展文はその名から想起される通り、中國人の留學生で、彼が歸郷しようと思っていた矢先に、神戸にいる親友の喬世修から手紙を受け取るところから物語は始まります。
父が亡くなり、彼の腹違いの兄を名乘る男が神戸の家を訪れたことに不穩な空気を感じた喬は、陶に助言を求めたのでした。そしてその手紙を受け取った陶は列車で神戸へと赴くのですが、すぐに喬の住む三色の家で、コックが撲殺された死体で見つかります。
その現場の状況というのがいかにも不可解で、入り口の二方を人が見張ってい、誰も脱出はおろか侵入さえも出來ないところであるにも關わらず、コックは殺されたのだった。この密室状況の中を犯人はいかにして現場へと侵入し、彼を撲殺しえたのか、という謎で引っ張っていくのですが、流石に1973年に書かれたというだけあって、その仕掛けは今のミステリ讀であれば容易に見拔いてしまうのではないでしょうかねえ。ただそれを爲しえる容疑者を絞ることは出來ても、そこから犯人を指摘するのが難しい。
やがて彼の妹と腹違いの兄が失踪し、隣町の仲士も消えてしまいます。彼らはこのコックの事件とどのような連關があるのかという謎も絡めて、陶探偵は三色の家にある手掛かりをひとつひとつ丹念に檢証しつつ、中盤で犯人を指摘してみせるのですがこれがみっともないくらいの大ハズレをかましてしまいます。ついに終盤に至って犯人を追いつめるのですが、犯人の自殺で事件は集束してしまう、……というこの時代の推理小説にはありがちな展開で幕引きとなるのですが、現代であれば本作をミステリとして讀むよりも、當事の神戸の雰囲気を濃厚に描いた風俗小説として讀んだ方が良いかもしれません。
勿論上に挙げたようなコックの殺人事件について、時には喬の妹の推理なども交えて物語は進んでいくのですが、その歩みは緩慢で、寧ろ魅力的な登場人物の描写や、異國文化の雰囲気も溢れた當事の神戸の樣子などにどうしても目がいってしまいます。
作者の略歴を見れば、中國人といっても中華民國人でありまして、この物語に登場する中國人も當に大人の風格を持った人物ばかりなのでありました。冒頭、探偵陶の讀んでいる新聞に日本が國際連盟を脱退したことが報じられていたり、特高警察が事件の背後に絡んでいたりというふうに、本作には當事の時代を感じさせる描写が多く、その時代の空気に引きずられるようにして事件が発生してしまったことが説得力をもって語られています。
要するに當事の時代背景を物語の基盤に据えて小説を構築するにしても、「當事の日本はとにかく惡玉」「當事の軍部は、特高警察は、日本は、日本人は、とにかく惡いことをやりたい放題」といった偏狹的な視座で物語を書くようなことはしていない譯です。この點においては、本作の杉江松恋の解説が秀逸で、
……ただし陳は、日本の侵略戦争を指弾することだけを意図しているわけではない。アヘン戦争以前以後という区分を重視することの意味はそこにある。陳の狙いは、西欧列強がアジアに帝国主義的支配をもたらしたために起きた歴史的変化を、大小さまざまな規模で描くことにあるのだ。その中では日本の植民地支配も一要素にすぎない。変化のスパンが大きければいわゆる「歴史小説」となり、小さければ「ミステリ」となる。
小説家だから偏った思想に流されてはいけない、とはいいませんけど、最近のミステリ作家に總じてイタい人が多いのはいったいどうした譯なのでしょうねえ。世代的な問題なんでしょうか。でも彼らは自分より年上な譯で、自分よりも確実に多くの本も讀んでいる筈だし、祖父祖母の世代から當事の話を子供の頃から聞いている筈なんですけど、何でああいう考えに至ってしまうのか。
まあ、誰が、とはいいませんけど、皆さんも誰のことをいっているのか、大凡は察していただけていると確信します。
で、何で今日は本作を取り上げたかというと、まあ要するに、某作家の10月31日付けの某日記を讀んでしまったからでありまして。彼の作品や発言をチラチラと讀んでいた限りでは、こんな考えを持っている方であったとはこの文章を讀むまではまったく知らなかったので、ちょっと衝撃を受けてしまいました。自分は三十代の後半、昭和世代の人間なんですけど、こんなこと、彼からいわれたくはないですよ。まあ、他のミステリ讀みのブロガーの方が彼の発言に關して激しいツッコミを入れてくれることを期待しつつ、今日はこのくらいにしておきます。