まだまだハジけっぷりは足りないものの、クールな精神科醫を主人公にスタイリッシュなミステリを裝いつつも、懐かし昭和エロスの雰圍氣タップリに展開する本作の物語は、初期の作品群とは大きく異なり、以前レビューした「私がふたりいる」や怪作「透明女」に至る萌芽をそのなかに見ることも出來るでしょう。
官能ミステリ、といえば聞こえはいいですが、ここは敢えて作者のハジけた作風に敬意を表して秘宝館ミステリ、と命名したいところですが駄目ですかねえ。
物語の主人公は精神科醫で、警察から依頼された二十歳の大学生の精神鑑定を行うことになるのですが、この大学生の丹野青年は、歳暮の配達のバイトをしていたおりに或るマンションを訪れ、その時に出會った女性のことが忘れられず、擧げ句に殺してしまった、と告白します。
冒頭、精神科醫の植村はそのマンションを訪れるのですが、青年が殺したと主張する女性は生きています。更に、女はその青年が自分を訪ねてきたことは事実だが、青年がいっているその時に彼はこの部屋には來ていないというのです。
だとしたら女性を殺してしまったという青年の言葉は、強い罪の意識が生み出した單なる妄想なのか、或いは女が嘘をついているのか、……實際のところ、殺したといった女は生きているし、すべては青年の妄想だったと片づけてしまえば簡單なのですが、精神科醫の植村はどうにも納得出來ません。またこの女の素振りに何か怪しいものを感じた彼は独自に調査を開始します。
このまま精神科醫の抑えた筆致で話を淡々と進めていけばそれなりに上質なミステリに纏めることも出來たもののそこは秘宝館ミステリの巨匠、戸川昌子センセのこと、尋常な物語に集束する筈もありません。
まず奇矯なのは、この精神科醫の主人公、植村の人物造形です。彼は事件の眞相を突き止めようと、關係者に話を聞きにいくのですが、その關係者というのが何故かことごとく女性、それもかなりの美人ばかりでありまして、彼はこの會う女性すべてにムラムラとしてしまう譯ですよ。そして、そのムラムラした氣持を何の躊躇いもなく讀者に告白してしまうものですから、果たしてこの主人公はまっとうな人格者なのかどうなのか、讀む方としては甚だ心許なくなってしまうのです。
そして彼を誘惑するかのように、女性たちも妙に艶っぽい雰囲気で彼に接するものですから、いったいどうなっているんだと。
例えば冒頭に挙げた大和田夫人は寢椅子の上に寢ころんで、タイト・スカートの裾から綺麗なおみ足をチラチラと覗かせるものだから、彼の方も「私がむりやり意識の下に押しやってきた欲望を搖り動か」されてしまうし、はたまた大和田夫人の夫であるパイロットと愛人關係にあるというスチュワーデスはチャイナ服を着て(何故チャイナ服?香港映畫ですかッ)彼の前に現れるや、「チャイナドレスの裾のスリットから、小麥色の脚をかすかにのぞ」かせて彼を誘惑したりするのですよ。光澤のある繻子地のチャイナ服のスリットから綺麗なおみ足を見せつけられて欲情しない男なんてのはいない譯で(おまけにその女性というのはスチュワーデスですよ)、据え膳喰わぬば男の恥とばかりに彼の方も結局は事件の云々なんてことはそっちのけで、このあと、彼女とホテルの部屋に入るなりキスしてしまったりする譯です。
このほかにも大学生が通っていた大學で知り合った女學生なども含めてほとんどすべての女性とこちらが羨ましくなってしまうような關係を持ってしまう主人公のモテモテぶりに讀者はただただ溜息をつくしかないのですが、こんな官能ミステリふうの展開を裏切るかのような、後半の、大学生が自殺を遂げてからの展開はなかなか凄い。
續いてパイロットの男性が事故を起こして死んでしまうと、事故機からは無關係な死体が一體発見されます。果たしてこの事故と、私が關わっていた事件とはいかなる關係があるのか、……と、ここに來て今まで曖昧になっていたすべての謎が繋がっていきます。最後に登場人物たちの隱された關係が明らかにされ、「夢魔」のような操りものかと思わせながら、実のところこの事件の中心には虚無しかなかったという幕引きが冴えています。
トリックというような大袈裟なものはなく、すべては事件に關係した人物たちの些細な過ちがトンデモないことを引き起こしてしまったというのが眞相なのですけど、この引き金をひいた黒幕が最後は或る人物に殺されて物語は終わります。
ウェストにぴっちり密着したスチュワーデスの制服、光澤のある繻子地のチャイナドレスといった男の欲望を直撃するアイテムは勿論のこと、パイロットの男が着ていたナイトガウンの裏地に竜の刺繍がしてあったり(香港マフィアですかッ)と服飾に關するディテールが妙に冴えているところも本作の見所のひとつでしょうか、全然ミステリとは關係ありませんけど。
初期のフランス風のミステリの作風から、フランス文庫風ミステリ、……もとい秘宝館ミステリへ至る過渡期に書かれた本作は戸川昌子のキャリアを俯瞰するにはマストの作品といえるのではないでしょうか。最初に書いた通り、今ひとつハジケていないところが自分的には不滿といえば不滿なのですが、後半、青年の言動が暗示していた眞相が明らかにされていく様はなかなかのもので、作者の初期ミステリを愉しめた人も満足できると思います。