前回取り上げた珠玉のトラウマジュブナイル「幽霊通信」の作者、都筑道夫の代表作といったら、やはり「七十五羽の烏」と本作でしょう。
本作、「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、被害者」という奇矯な設定乍ら、今讀み返してみると、仕掛けも素直で端正に纏まっていますねえ。
それと舞台の背景はもろ昭和初期の香りがするんですけど、登場人物たちの小洒落た雰囲気とも相俟って、どうにも日本の作品というかんじがしないあたり、いかにも作者の風格らしく、前衞的な設定でありつつ、小説としての結構は手堅く決めているところがいい。
語り手の淡路は「推理小説を書いて、生活している」のだけども、生活の為に實話雜誌へ不本意な原稿も書いている作家です。その彼が有紀子に對する偏執的な愛情の為に塚本という男を殺そうとするのですが、本作が、というか、この淡路が捻くれているのは、塚本を殺すと有紀子が不幸になるからといって、塚本とは關係のない男を殺すことによって、自らの心の内にある殺意を満足させようとするところでしょう。
勿論淡路はあくまで殺そうとするだけで本當に人殺しを行う譯ではありません。作家ですから自らの妄想を演じることだけで、自らの殺意を満たそうとする譯です。
彼は有紀子の部屋から盜んできた風邪藥を毒藥に見立てて、後藤という男の珈琲にその風邪藥を仕込むのですが、その後藤はその珈琲を飲んで本當に死んでしまいます。
もし自分が仕込んだ風邪藥で男が死んだとしたら、それは乃ち有紀子が何者かに狙われているということであるわけですから、淡路の心は落ち着きません。後藤を殺そうとした犯人でありながら、彼は有紀子を殺そうとしている殺人者を突き止めようと自ら探偵を買って出るのだが……。
自らのなかにある屈折した殺意が現実のものとなってしまう不條理な展開といい、淡路の淡々とした文章に反して、有紀子に対する何処か異常な愛情といい、一筋繩ではいきません。
やがて彼の探偵としての行動もむなしく、第二の殺人、第三の殺人が起こるのですが、特に第三の殺人の仕掛けは單純ながら、メタな仕掛けを絡めた趣向が凝っています。
この第三の殺人のいきさつは淡路自らが手記として殘しており、「探偵」は事件の手掛かりを彼の手になるこの手記から探っていきます。この過程で第一の殺人の背景が暴かれていくのですが、勿論これだけでは終わりません。最後には讀者を卷き込むメタなたくらみで、小洒落た幕切れを用意しています。
全体を通して妙な淡泊さを感じさせる作品ですねえ。サスペンスで盛り上げるでもなく、物語は淡路の作家としての日常も交えて淡々と進んでいくのですが、自分の妄想のごとき殺意が現実のものとなって、有紀子が何者かに狙われているのですから、淡路だってもう少し慌てても良さそうなのですけど、彼の筆は妙に落ち着いています。この淡路を取り卷く現実と、彼の手記の内容との對比が妙な違和感を釀しているんですよねえ。
今だったら、淡路の狂的なところを際だたせて、もっとサイコなネタで書かれそうなお話なんですが、このあたり、作者の資質なのかそういう展開にはなりません。ここを物足りないと感じるか、それとも品のある作風と分かってもらえるか、現代の讀者がどういう感想を抱くのか興味のあるところです。
本作は淡路が都筑道夫の「猫の舌に釘をうて」の束見本に手記をしたためているという設定になっていまして、結局この手記は淡路が「通りがかりの新刊書店の棚につっこんでお」き、「都筑道夫の新作のつもりで手にとった読者」が「読んでびっくり」することでこの仕掛けが完結するという趣向です。
こういうメタな仕掛けも當事はかなり斬新だったのだと思います。今ですと、前に取り上げた辻真先の「仮題・中学殺人事件」や「盗作・高校殺人事件」、更には小森健太朗の「コミケ殺人事件」などなど先鋭的なメタミステリがあるので、それらと比較してしまうとどうしても見劣りしてしまうことは事実なんですけど、こういったメタな仕掛けを大胆にも取り入れた先驅性がまずは評價されるべきでしょう。
更には冒頭に挙げた「私はこの事件の犯人であり、探偵であり、被害者」という設定に關しても、本作がリリースされたのが1961年、つまりシャプリゾの「シンデレラの罠」(1962)よりも早い時期に着想されたものであったということも驚きです。
メタミステリの先驅的作品として、更には「シンデレラ」系の前衞作品としても讀んでおきたい日本ミステリの古典。日本の本格ミステリの歴史に興味がある人は讀んでおいて損はない傑作であります。