「猟人日記」といってもツルゲーネフのそれではなくて、こちらは戸川昌子の乱歩賞受賞後の長編では第二作目となるミステリ。
戸川昌子といえば、「大いなる幻影」をはじめとして、前に取り上げた「火の接吻」、そして「深い失速」などなど、「何が起きているのか」「何が起ころうとしているのか」が見えてこない幻想的な作風が特徴的な作家な譯ですが、本作はそんななかでも物語の構成は非常に明確で、それゆえに終幕寸前の強烈なドンデン返しが鮮やかなミステリに仕上がっています。
プロローグからその仕掛けは始まっているので、ゆめゆめ氣をつけないといけません。オセローの一節を冒頭に据えたプロローグは、本作の第一部の主人公、本田一郎に「狩られる」女性の視点から描かれます。
酒場で、女性と本田が出會う場面はさながら映畫のワンシーンのようなのですが、この女性、尾花けい子はその後、自殺體となって発見されます。
警察がけい子の姉に彼女が妊娠六ヶ月であったことを告げるところでプロローグは終わり、いよいよ本田の「猟人日記」が描かれる第一部「狩と獲物」へと至るのですが、物語が本當に始まるのはここから。
第一部は、プロローグで本田と尾花けい子が出會った酒場から始まります。顏に黒子のある謎めいた女性が現れ、バイオリンの流しに、二人が出會った夜のこと、そしてその男のことを執拗に尋ねるところが描かれています。
すぐさま場面は變わって、後はひたすら本田が若い女性を「狩る」物語が續くのですが、「狩る」といっても、今ふうにいえば、要するに若い女性をナンパして、食事して、そしてホテルに、……というものです。出版芸術社からリリースされているミステリ名作館のあらすじはこんなかんじ。
優秀なコンピュータ・エンジニアである本田一郎は、二つの顔をもっていた。妻との交渉はほとんどなく、夜になると女性を求めて街へとくりだす一郎は、甘いマスクを武器に孤独な獲物を狩るドンファンなのである。そんな一郎が、ある日突然逮捕された。彼が今までにつきあってきた女性達が次々と殺され、現場には一郎の犯行を裏付ける遺留品が残されていたのだ。巧妙に仕組まれた罠。彼を陥れたものは誰か?妖しい筆致で読者を夢幻の境に誘う異色のサスペンスロマン。
ドンファン、っていう言葉がいかにも時代を感じさせちゃったりするんですけどねえ。
現代の小説で「狩る」といえば乃ち殺す、ということになってしまうんですけど、本作がリリースされたのは昭和三十六年。もう四十年以上も前の物語な譯です。
例えばトルコ風呂なんて言葉が何の躊躇もなく出て來たりするし、登場人物のひとりがチャタレイ裁判やサド裁判についてさらっと口にするくだりなどがあったりして、あの昭和の時代を濃厚に感じさせる描写が云々、……といっても昭和三十六年といえば、まだ自分も生まれていなかったんで、こんな言葉を垂れるのも妙ですな。
本田という男は外國人と見まがうほどの彫りの深い顏立ちで、その出で立ちたるや織り目の荒いツイードの外套に、イタリア製の靴を履いていたりする譯です。
都内の高級ホテルに逗留し、ホテルのレストランで高級なディナーを愉しみ、銀座や新宿、四谷の高級酒場を遊び場にして、というこのスノッブぶりは現代でも十分に通用しますね。何だかBRIOとかのオジサン雜誌に毎回氣取った恰好で登場している讀者モデルみたいじゃないですか。
ベンツだビーエムだマセラティだフェラーリだレンジローバだなんていうマイカーの助手席に美人な奧様をはべらせて、休日は銀座でブランドショッピング、そのあとは高級レストランでブランチ、みたいな、ちょっとこう、何というか、背筋がムズムズしてくるような方々をイメージしていただければ宜しいかと。
それでもって、本田はその甘いマスクとスノッブな雰圍氣をウリにして外國人に憧れる若い女性を次々と「狩って」いく譯です。
で、或る日、彼は自分が「狩った」女性のアパートを訪ねるのですが、そこで死体となった女性を発見し、自分が疑われることを恐れた彼は、警察に知らせることなくその場を立ち去ります。
その後、再びもう一人の女性と逢い引きをする為にアパートを訪ねると、彼女もまた死体で発見されるに至り、彼は何者かが自分を罠にかけようとしていると悟る。
そして遂に殺人容疑で本田が逮捕されるところで第一部は終わります。
果たして本田を陷れようとしているのは何者なのか。それとこの第一部の冒頭で語られた黒子のある女との關連は、……というあたりをほのめかしながら本田の起訴状や公判調書を纏めたインターバルを挾んで、第二部が始まります。
第二部「証據の採種」からは一転して、本田の弁護士となった進士の視点から物語は進みます。
本田が「狩り」を行った女性とのアバンチュールを克明に綴っていた「猟人日記」が、第二の死体発見で部屋を開けていた際に、何者かの手によって持ち去られているのですが、この失われた日記の内容は大きく事件の眞相に關わってきます。
そして進士の調査の過程で明らかになっていく、血液バンクの存在。第一部の冒頭の場面で登場した黒子の女が、かつて妹を殺された尾花けい子の姉があることを突き止めた進士は、彼女が潜伏していたアパートに向かうのだが、……ここで仕掛けられたトリックは解説の權田萬治いわく「心理的トリック」だと述べているのですが、今でいうとアレ系に近い。實際、自分も初讀のときの驚きは今でも鮮明に覚えていますから。この當事はアレ系なんて言葉はなかったんでしょうねえ。もっとも登場人物たちもシッカリと騙されている譯で、そこが純正のアレ系とは大きく違うところ。
第一部、そして第二部と物語の展開は明確な故に、「大いなる幻影」などの諸作とは異なった、何処か明るい雰圍氣が物語全体に感じられるのも本作の大きな特徴でしょう。
勿論、これは權田萬治も解説で述べているように、本作の主要登場人物である本田の人物造型と、「狩り」を愉しむという、鬱々としたミステリとは一風違った物語の展開によるところもあるのかもしれません。
騙し、という點で見れば、作者の作品のなかでは一番衝撃度も大きいです。決してヘンな物語ではなく、都會的で洗練された雰圍氣も格別な本格ミステリ。作者のファンならずとも、アレ系の仕掛けが好きな人にもおすすめしたい傑作ですよ。
寫眞は自分が持っている講談社文庫版ですが、今だったら出版芸術社からリリースされているミステリ名作館の方が手に入りやすいでしょう。