何だか本屋に行ったら、西村寿行の「峠に棲む鬼」が平積みになってまして。
リリースは文芸社、解説は夢枕漠。勿論文庫で持っている筈なんですが、懷かしくて思わず買ってしまいました。よく見るとその傍らには「惡霊の棲む日々」が山田正紀の解説であったりして、いったいどうなっているんでしょうか。寿行ブーム再來ですか。
で、「峠に棲む鬼」をここで取り上げても良いんですけど、傑作ということであれば「滅びの笛」、「帰らざる復讐者」、「遠い渚」、「化石の荒野」、「君よ憤怒の河を渉れ」、「峠」、「無頼船」、鯱シリーズ、……などなど色々とあるし、それにいかんせんどれもここで取り上げているようなミステリとも少し、というか、かなり違うし、どうしたものかと考えたのですが、結局本格ミステリファンだったら名前くらい聞いたことがあるだろうという本作を。
新本格ミステリのファンだったら當然、有栖川有栖の「46番目の密室」は讀んでいるでしょう。でこの作品の冒頭、火村が講義のなかで本作に言及するところがあるんですよ。
有栖川有栖が寿行を讀んでいたっていうのは嬉しい驚きだった譯ですけど、実をいうと本作は寿行の作品群のなかではかなり異色です。
まず寿行の物語にはお馴染みの息詰まるようなアクションシーンは皆無、そして物語も決して流れるように進む譯ではなく、大半は江戸から現在に至るまでの黒い血を繼いだ家系を淡々と追っていくことに費やされています。
とはいっても寿行ワールドでは御約束の凌辱シーンもテンコモリではあるのですが、それは讀者へのサービスというよりは、寧ろこの呪われた黒い血族の異樣さを際だたせるためにあるようなかんじで、作者の渇いた筆致もいつものリズムとは違うんですよ。
物語は、警視廳捜査一課の刑事である霜月が、多摩川の河畔で、二年前に愛する妻と子を殺された事件を回想するところから始まります。
彼は刑事を辞職して、事件を追っているのですが、その過程で、霜月の一族の子供たちが皆不可解な死を遂げていることを知ることになります。
黒い血の由來を探るべく殺された者たちの家系を調べていくうちに、霜月の一族を抹殺しようしている存在が浮かびあがり、彼の前には冷酷な暗殺者が姿を現し、……という展開です。
第一章「闇よりの触手」から第二章「因果」までは、この霜月が事件を追っていく過程が描かれるのですが、續く第三章「系譜」からは時代を大きく遡って、江戸は享和二年、呪われた黒い血の家系が生まれるに至った経緯が明かされていきます。
短い文節で各シーンを切り出すように描いていく寿行の文体は相變わらず乍らも、本作の筆は何処か冷めているように感じられます。
凌辱、近親相姦と黒い血が生み出されるに至る物語は狂氣と凄慘を極めているのですが、それが淡々と事実を列擧するだけのような妙に突き放した筆致で描かれているところがちょっといつもの寿行節とは違うんですよ。
やがて霜月は、自らの家系「霜月」の系譜を辿っていき、そこに恐るべき暗殺者の影を見ることになるのですが、ここで分岐した黒い血がお互いを憎惡するかのごとく闇を孕んで現代にまで受け繼がれていることが明らかにされます。ここに至ってようやく物語の背景がすべて提示されることになる譯です。
そしてすべての黒い血の系譜を調べ了えた霜月は暗殺者と再び對峙するのですが、そこで知らされることになる眞實とは、……とここで本作の持っている仕掛けについて語らないといけません。
本作は現代から過去へと遡っていくだけの單純な物語ではなく、ミステリふうにしっかりと仕掛けが施されているのですよ。
霜月の妻と子供は夜、家から男の車で連れ出され、多摩川の河畔で凌辱を受けたすえに殺されたことが分かっているのですが、犯人は何故自宅で殺害を行わず、多摩川まで妻と子供を連れ出して殺害したのかという謎があり、これが最後の最後で明らかにされるのです。しかしこの眞相は相當にヘコみます。
過去へと遡っていく物語のなかの前半で、すでに霜月の姓がこの黒い血と交わるところがハッキリと明かされており、後半ではそこから分岐したもうひとつの霜月家の血が、この黒い血脈を葬るべく国家の闇の組織へと組み込まれていくことが描かれています。
で、お氣づきの通り、これらはすべて本作の主人公である霜月の血脈である譯ですが、殺された妻の方の家系もまたこの黒い家系と色濃く關わっていたことが、物語の後半の方で「登場人物の主な系圖」とともに突然明かされるのです。
そしてこの事実が、何故妻と子は多摩川河畔で殺害されていたのか、という謎を解き明かす鍵となっているのですよ。まあ、眞相は是非本作を讀んで確認してもらいたいところですねえ。
終幕は、勿論主人公の霜月と暗殺者との鬪いです。同じ血脈を繼ぎながらも、私怨のみに生きて暗殺者を殺そうとする霜月と、冷酷な論理を掲げて国家の闇に生きる暗殺者。そのいずれが勝利したのか、その結末を讀者に委ねる幕引きが秀逸。
本作は決して寿行の本流という譯ではありませんが、作者のターニングポイントともいえる傑作であることは間違いありません。
本格ミステリファンに手放しでおすすめできるような作品ではありませんが、火村ファンだったら必讀、……ですかねえ。