傑作。活劇、というわけではないけども、探偵小説というよりは、そちらの趣が濃い。派手な殺人が次々と起こりますが、実は犯人とその方法を当てるのは比較的簡單。自分は中盤で分かってしまった。二階堂黎人は手がかりをあからさまに書きすぎると思います。もうちょっと狡猾であっても良いのでは、と思うのだけども、この當たりは几帳面な人なのだなあ。
しかしこの小説の面白さは謎解き以上に怪人の活躍で、これはもう、本家の江戸川乱歩を拔いていると思う。子供の頃に二十面相を讀んだ大人であればいっそう愉しめる筈。
実はラビリンスが活躍した「悪魔のラビリンス」は未讀で、ラビリンスがどんなものか分かっていないままに讀み進めていったのですが心配無用。
とにかくド派手に事件が息をつかせる暇もなく起こるので飽きることがない。この小説が探偵小説というよりは活劇と思わせるゆえんで、犯人にあらかた目星がついていても次にどうなるのかと頁を繰るのも早くなる。
そういや、子供の頃に讀んだ乱歩だって犯人は誰だと考えながら讀み進めていた譯でもないしねえ。
物語の長さもほどよく(告白すると、人狼城は一巻で挫折したクチ)、一邊の映畫を見終わったような讀後感。個人的には法月の新作法月の新作よりも愉しめた。やはり自分にはこういう小説の方が向いているのかも。
魔術王事件/二階堂黎人
はじめまして。山口雅也「奇偶」で検索していて、ここに辿りつきました。私の知らない書名がほとんどですが、面白そうなので今後チェックさせていただきたいと思います。
二階堂氏ですが、私も「吸血の家」がいちばん好きです。そして、この「魔術王事件」に関しては深く落胆しました。もう二度とこの作家の本を読まないかもしれない、というくらい。
というのは、この作品の欠点と思えるところが、作家の悪い癖とでもいうか、もう改善されることはないのだろうな、という、いわば作家の個性の延長上にあるもので、かつ、それが個人的に許せない性質のものだからです。
要点は2つに集約されます。1つは、「手がかりをあからさまに書きすぎる」と書かれておられますが、裏を返せばミスディレクションという技術を軽視し過ぎている事です。まじめに推理するまでもなく、「一番容疑の外にある人物=真犯人」という図式がこうもあからさまに成り立ってしまうというのは、読者としてバカにされたような気分になってしまいます。
もう1つは、子供の頃に読んだ冒険小説のようなワクワク感というか、そういうものを目指しているのだとしたら、作者にはそういう小説を書く才能が欠落しているとしか思えない、ということです。孔雀の羽を刺すことで別の鳥に化けようとしたカラスのような印象を受けます。この作品には悪人も、正義の味方も、いると感じません。冷酷な小悪党と淡白なパズルマニアがゲームをしているだけだと、そう感じます。これがその通りの、残虐なゲーム・マニア2人が警察を巻き込んだ壮大な勝負という名の暇潰しをする、という物語であれば、素直に楽しめたと思います。しかし、血沸き肉踊る冒険小説、という皮をあくまで被ろうというのなら、私はもうこの作家の作品を読めないと思います。
まあ、作家も(可能性を広げるという意味での)冒険はするべきだと思いますから、こういう作風の小説を書いた、というその一点だけで一概に否定するものではないでしょうが、1読者として、私はついていけないと思った、ということです。
いくつかの記事を読んだ限りでは、貴兄は作家に対してかなり寛大な方だと感じました。不愉快に感じられたかも知れませんが、私も二階堂氏のファンでしたから、正直なところを述べたらこうなりました。どうも唐突ですみませんでした。では失礼します。
zeitさん、こんにちは。
うーん、おっしゃられていることは理解出來ます、というか全面同意してしまうんですけど(^^;)、結局は「孔雀の羽を刺すことで別の鳥に化けようとしたカラス」の滑稽さ、クダラなさを愉しめるかというところに歸結するように思います。二階堂氏は大眞面目に本作でも乱歩的な冒険活劇を創出しようと試みている譯ですが、それが見事に空回りしている。しかし讀者にしてみれば、作者の意図通りの物語になっているかどうかというのはあまり關係なく、要はそれを愉しめるかどうかにある譯で、自分の場合、そのいつもながらの(空回りした)ところも含めて、本作は結構愉しめました。ただ、確かに眞面目に讀まれると許せないというのはよく分かります。
また、犯人がすぐ分かってしまうという点についてですが、二階堂氏にかわって説明いたしますと(爆)、本作はそのほかの蘭子ものとは異なるシリーズで、犯人当てを目的としたものではないものだと以前日誌に書いていたと記憶しています。ですから犯人がすぐ分かってしまうという点について責めるのはちょっと酷かな、とも思ったりします。まあ、だからといって鮎川氏の某作の仕掛けをあそこまであからさまに使ったりしているところはツッコミを入れても良いとは思いますけどね。
結局、氏の自らの作品に対する宣伝文句が、読者に提出される作品とはあまりに乖離していること、そして本に添えられた宣伝文句が的はずれなことが問題なのかもしれません。「チープでキッチュな魔術王が大暴れ!今回も勘違いお孃樣探偵蘭子が平民を見下す態度で大活躍するぞ!乱歩チックでハラホロな二階堂ワールドに君はついてこられるか!」みたいな煽り文句をジャケ帯につけてくれれば、「普通のミステリ」が讀みたい讀者は敬遠し、自分のようなキワモノマニアだけが讀むカルト作家で結構いけると思うんですけどねえ。
返信ありがとうございました。「乱歩チックでハラホロな二階堂ワールド」なる小説を意識して書かれた場合には、二階堂氏は今でも一流の作家だと、私も思います(^^;)。逆に言えば「本格」作家としては、頭打ちだという事になります。
例えば本作で最も評価されるべき、大胆な死体移動のトリックに関して、情報が不十分でフェアではないと感じます。私は自分で勝手に「見抜かれても構わない囮としてのトリック」すなわち「見せトリック」という概念を持っていますが、最近では、「見せトリック」はきちんとフェアに書く、本気のトリックは実はフェアではない、けれど「見せトリック」の効果により、それは許されてしまう、という構造のミステリが多いと感じます。で、私は”本格を愛する”二階堂氏には、そういうセコイ事はやって欲しくなかったな、と。
まあファンとしては、そういう、言い訳がましいところが悲しいというか、それを本人がわかってるのかどうか不明なところがさらに悲しいというか。島田荘司みたいに、嫌われるところも含めて自分だと、開き直ったような作品を書くようになられれば、自分としては納得がいくのですけどね。
最後になりましたが、作者の意図通りに読む必要はない、という点については、私はそれをミステリに適用してもよいのかどうか、現在、悩んでいるところです。私としては、作者の意図を読むのが”推理”小説だと思っているところがあります。今の森博嗣なんかは、ミステリの文脈をいかにねじ曲げるかに腐心しているようなところがあって、そのつもりで読めばおもしろいし、普通の謎解き小説として読むと、初期のようなおもしろさはないと感じます。で、逆に「作者の意図とその達成」という観点から読む場合には、おもしろくない小説が世間にはある、と(^^;)。この問題にどう収拾をつけるかというのは、私の中では現在懸案事項のままであります。
長くなってしまいました。では失礼します。