前回取り上げた「不連続殺人事件」の作者、坂口安吾は、嚴格な推理小説觀の持ち主でありました。冬樹社の「坂口安吾評論全集 2 文学思想篇 II」には推理小説に關するいくつかの評論も収録されていまして、その内容を知ることが出來ます。
まあ、簡單に纏めてしまうと、探偵小説推理小説とは、ゲームであり、作者と読者の知恵比べである、と。從ってゲーム以外の要素は彼にとっては不純物に過ぎず、衒學趣味が横溢した作品などは唾棄すべきものである譯です。そうなるとまず槍玉にあげられるのは海外の大御所ではヴァン・ダイン、日本では小栗虫太郎。
殊にこの二人には手嚴しく、小栗に關しては「仕掛けの確実さを追求したらまことに怪しいオソマツなものばかりで、その安易な骨組をごまかすために衒学の煙幕をはったもの、こういう手法は最も非知的な児童的カラクリでかかる欠点は大いに追求されねばならぬ性質のものであった」(「推理小説について」)とバッサリ。
そんな安吾が本作に關して「『刺青殺人事件』を評すという評論の中で感想を述べています。全文ここから引用しようかと思ったのですが、あらあら、本作の解説のところにその内容がすべて掲載されていましたよ。
これが凄まじい内容で、まず最初に「これは、ひどすぎるよ」というダメ出しから始まり、「宝石の記者は、まさに、こんなものを人に読ませるなんて、罪悪、犯罪ですよ。罰金をよこしなさい。罰金をよこさないと訴えるよ」「これは文章から人物の配置から、何から何までヴァン・ダインの借り物じゃないか」と書いています。
まあつまらないものを讀まされた怒り、そして金かえせ!と叫びたい氣持は大いに分かります。分かりますけど、安吾のこの文章はあまりに大人氣ないというか何というか。
本作の解説には、この安吾の評論がミステリ界でかなりの波紋を呼び、乱歩御大が「宝石」で反駁した後日譚も書かれています。この乱歩の文章もなかなか興味深いので、是非とも目を通していただければと思います。
さて、前置きが長くなりましたけど、では果たして本作は安吾のいうとおり、「ヴァン・ダイン」の借り物なのか否か。本作に解説をよせている日下三蔵氏はこの安吾の批判を的はずれと書いているのですが、それでもやはり本作は多分にヴァン・ダインの作風を意識した作品になっている、というかそのまんまのような氣がするんですけどねえ。
「フィロ・ヴァンスなる迷探偵が何かにつけて低脳そのものの智者ぶりを発揮する。まったく、ここまで超人的明察となると、これは低脳と云わざるを得ない。……これに配するボンクラ刑事は、マーカムという檢事、ヒューズ警部、御ていねいに二人まで登場して、読者には判りきったマヌケぶりをくりかえし、くりかえす(坂口安吾「探偵小説を斬る」)
本作で探偵役を務めるのは、少年タイムズの編集長である津田で、對する「ボンクラ刑事」役には千葉警部という人間を配しています。事件は多摩古墳群を発掘していた曽根という男が古墳の中で頭を碎かれて殺されていた。彼は生前に奇妙な詩文を殘していて、その意味するところは何か、そして犯行方法は、という謎を巡って、探偵役の津田がエジプトや古墳の知識をくだくだと述べ立てるというのが本作の見所です。
確かに頭を抱えてしまうような日本語も多く、衒學趣味をひけらかす探偵の津田に向かって、千葉警部が「救い難い資料的観念論者だぜ、きみは」なんてツッコミをいれたりするんですが、資料的観念論者って何ですかいったい。
本作で使われている物理的トリックは、今となってはありきたりのものなんですが、寧ろ本作のキモは探偵役が眞實を知っていながら、奇妙な詩文を殘した人間の意図をくみ取って、ある人間を告発すべく偽の推理を披露したりするところでしょう。
要するに探偵はやりたい放題。一方の相方は大變です。エジプトといったらクレオパトラしか知らないっていうのに、探偵が「イクフナトンは、エジプト人に偶像礼拝を禁じ、太陽礼拝を命じた。かれはモーゼよりはるかに早く、一神教として太陽崇拝を説いたのだ……」なんていう演説を始めても黙って聞いていなければいけません。しかし千葉警部、ツタンカーメンを知らないっていくらなんでもダメだと思いますよ。
いかにも奇矯で怪しげな容疑者も見所なのですが、惜しむらくは探偵をはじめとして登場人物がハジけきっていないところでしょう。
これが小栗虫太郎の「黒死館殺人事件」くらいになっていれば、本作も怪作として歴史に名を殘したと思います。本作の場合、探偵の津田に衒學趣味でツッコミをいれることが出來る人物がいないんですよ。例えば「黒死館」であれば、真斎のような役所というか。
この真斎という人物、かなりの強者で、變人探偵法水が會話の途中で突然、「君が懷かしき魔王よ」、「汝真夜中の暗きに摘みし草の臭き液よ」とかボードレールやポープの一節を引用すると、自分も負けじと「三たび魔神の呪詛に萎え、毒気に染みぬる」と書物の引用で應じたりするんですよ。これ、ハタから見ていたら完全にコントなんですけど、作中の登場人物たちは至って大眞面目で、観衆のツッコミなどハナから期待していません。
で、本作でも三明という少し狂った人物が登場するのですが、津田の衒學趣味に眞っ向から付き合うこともなく退場してしまいます。ここが惜しい。何でも中途半端はいけませんよ。
そんな譯で、いまひとつ滿足感は低いのですが、昔はこんな探偵小説もあったんだなあ、と遠い目で感慨に浸るには恰好の一品。レトロ風の安い衒學趣味(惡い意味ではなくて)にしびれてしまう御仁におすすめしたい作品です。
初めまして、書名で検索してたどりつきました。私の編集した本を、
たくさん読んでいただいているようで、ありがとうございます。
『古墳殺人事件』解説中の、安吾の批評を引用した部分についての
ご指摘ですが、
「ヴァン・ダインの(スタイルの)借り物」であると指摘したこと
が的外れだ(=『古墳』はヴァン・ダイン・スタイルではない)
などと言うつもりはまったくなく、
「ヴァン・ダインの借り物(だから無価値だ)」という批判は的外れだ
と言いたかったのでした。読み返してみると、確かに意図が伝わりにくい
書き方だったかも知れません。申し訳ありませんでした。
わわっ、 日下三蔵先生ご本人ですかっ!
コメントありがとうございます。なるほど、上の意味でしたら納得です。
この昭和ミステリ秘宝シリーズ、自分はかなり氣に入っています。とにかく自分が學生時代に讀んだような傑作名作は現在殆ど絶版の憂き目にあっておりまして、讀み返そうにも容易に手に入ることの出來ない本の多いこと多いこと、……そんな譯で、このシリーズは續けていただけると本當に嬉しいです。例えば笹沢佐保なども本シリーズに収録する價値はあると思うのですが如何でしょうか。
昭和ミステリ秘宝は、ぜひ続けたいシリーズなのですが、担当の方が
会社を移ってしまいまして、現在、中断中であります。いずれ機会を
見つけて再開したいと思っております。
ところで「弁護側の証人」のご感想で「アンフェア」と書かれていた
カバー袖の文章は、私が書いたものなのですが(笑)、アンフェアに
ならないように、細心の注意をはらって書いたつもりであります。
でも、これを説明すると完全にトリックをバラすことになってしまう
ので難しいんですよね。とりあえず、「主語を明示していない文章」
に着目して、もう一度読み返していただければ、と。
日下先生、こんにちは。度々の来訪、ありがとうございます。
昭和ミステリ秘宝の件は殘念です。このシリーズ、新本格でミステリを好きになった若い世代にも十分にアピール出來る作品ばかりで好きでした。しかしその一方で、泡坂妻夫の「斜光」の「新しい」作品でさえ、小栗虫太郎の作品と同じように「秘宝」として語られてしまうのか、という寂しさを感じてしまったのもまた事実で。
「弁護側の証人」はこの系統の作品の中でも特にあらすじの説明が難しい作品だと思います。犯人の名前もあっさりと明かされているところがかなり大胆だな、と思った次第です。ただもう一度讀むと確かに主語を明示していない文章というのはその通りですね!うーん、自分はこういう巧みな技は使えません(^^;)。流石です。
そういえばちくまの怪奇探偵小説傑作選の仕事も日下先生の仕事だったのですね。これもまた素晴らしいセレクトで大滿足のシリーズでした。
そういえば話は全然變わるのですが、先生は以前仁木悦子メモリアルのオフ會で臺灣のミステリファンの方と交流されていたと記憶しています(ですよね?)。
このラインで、傳博(島崎博)御大も交えて臺灣のミステリ作家(藍霄や既晴)の日本への紹介などをしてくれると、臺灣ミステリのファンの自分としては望外の幸せなのですが、……無理ですかねえ。
やはり歐米のものと違って、中國語となると日本では讀める人も少ないからどうしてもマイナーになってしまうのでしょうか。それでも既晴の作品など、現在の日本のミステリファンにも結構アピール出來ると思うんですけど如何でしょう。
有栖川先生も前回臺灣に行かれた時に、藍霄氏からは「錯置體」(傑作!)を、そして既晴氏からは「魔法妄想症」(これも素晴らしい!)を受け取っている筈で、是非とも兩作の感想を知りたいところなんですけど、自分が見ていた限りではメフィストの訪問記で終わってしまっているみたいですし。