傑作。事前に「ドロドロの凄い話ダヨ」とは耳にしていたのですが、タイトルにある「鬼畜」という言葉通りにすさまじい家族と人間像を活写しながらも、その物語の強度がそのまま本格ミステリとしての仕掛けへと昇華されている作者の企みにまず脱帽。癖のある独特の結構から、鬼畜どものおぞましい人間像と、そのすべてにおいて濃厚な味付けに感嘆した次第です。
物語は、とある女の悪の所行について、彼女に関わった人物に探偵が聞き込みを重ねていく、――というのが冒頭からの展開でありまして、そこからこの鬼畜女の悪業と因果が明らかにされていきます。しかし本作が興味深いのは、本作のダーク・ヒロインともいえるこの女について関係者から様々な話を聞いていくなかで、同時に彼ら彼女たちの心の中の暗さをも同時にジワリジワリと描き出していくところでありまして、実は悪いのはヒロインだけではなく、その周りもかなりアレ、……という鬼畜まみれの人物構成が、本作における誤導をさらにまた盤石なものへと仕上げるための布石になっているところが素晴らしい。
旦那を殺し、自分の娘を預かってもらった夫婦が死ねばそこから金を巻き上げ、挙げ句に保険金目当てで娘を殺し、……と悪行を重ねた末の因業か、彼女は事故または自殺かという死を遂げるのですが、あれだけのタマが自殺などする筈がない、だとすればこの女の死の真相は、――というところが本作における「謎」として提示されながら物語は進んでいきます。
冒頭の聞き込みを重ねたのち、読者の脳裏にワルなヒロインの人物像がしっかりとできあがった後に、「だからこそ」その死は不可解であるという、この謎かけの方法とタイミングがまた見事で、実をいえば本作ではことさらこうした本格ミステリならではの「謎の提示」から「推理」による「解決」といった縦軸を意識せずとも、その鬼畜家族の壮絶さだけでも十二分に愉しめるようになっています。
上に述べたような謎の提示にしても、黄金期をリスペクトして外国を舞台にド派手な死体が探偵とボンクラワトソンの目の前にドカンと現れるや、やれ密室だ何だと、読者に対して懇切丁寧に「誰が犯人か」「そして密室にした方法は」と、その「謎」についてくだくだしく説明してくれるような作風とは本作は無縁、むしろ作者の企みは、そうした謎の隠蔽に注力されているようにも感じられます。
そうした結果、本作の前半から中盤まではおおよそ本格ミステリらしくない装いを見せているのですが、謎の提示を牽引力とするまでもなく、本作ではワルなヒロインの悪業が続々と暴かれていく展開だけでも引き込まれてしまいます。
ではこれを本格ミステリの骨法に従わない自然主義的な作風なのかというと、まったくの正反対で、そうした「らしくない」装いこそが作者の最大の罠でもあるわけで、後半、唐突に探偵が傍点付きで口にする一言によって、今まで語られていたすべてが異様な構図へと変化する外連がとにかく素晴らしい。
本格ミステリの読み方に慣れていないフツーの読者であれば、まず冒頭からじわじわと明かされていく鬼畜女の所行に引き込まれていくことは間違いなく、またミステリ読みにしても、作者がこの前半からの形式によって構築してみせた絵図の真意をまず疑いながら読み進めていくことは当然に予想されることながら、上に述べた外連に関していえば、作者はそこにまったく別の仕掛けを凝らしてみせているわけで、この考え抜かれた誤導の二重構造が秀逸です。
鬼畜女の行いを壮絶な逸話も添えて明かしていくなかに、禁忌も織り交ぜながら読者の頭の中に偽りの物語を構築させ、それを強度の誤導に用いる技法は、現代では道尾ミステリ的と見ることも可能かと思うのですが、個人的には、個々の「事件」を際立たせることなく、ある人物の逸話を前面に押し出しながら読者の意識を操作していく結構と風格は戸川昌子を彷彿とさせます。特に自分が本作の華麗な仕掛けに圧倒されて思い浮かべたのがこの作品とかで、作者がどのような読書遍歴を辿った後に本作のような作風を確立するに至ったのか、ちょっと興味があったりする次第。
確かに「事件」に凝らされた伏線については、今時コレかい、という代物ながら、上にも述べたように、本作の凄まじさはそうした「事件」に添えられた装飾よりは、全体を俯瞰した時にだけ見えてくる人物配置や逸話を巧みに折り重ねた構図のディテールであり、戸川ミステリ的ともいえる大胆な誤導の仕掛けと、ポスト道尾ミステリ的な誤導のベクトル操作に着目すれば、本作の企みは紛れもなく現代本格のソレ。
ばらのまち福山ミステリー文学賞の三冊の中では、もっとも取っつきやすく、それでいて大胆さと繊細さの際立つ仕掛けの妙はピカ一という本作、本格読みだけではなく、フツーの本読みでもかなり愉しめるののではないでしょうか。オススメでしょう。