まもなく「虚擬街頭漂流記」が日本でも刊行される寵物先生の初単行本。本作は、アレ系の仕掛けを凝らした初期の作風から、アシモフのロボット三原則をモチーフにしたSFミステリへと大きく飛躍した一冊で、SFと本格ミステリを感動の人間ドラマへと昇華させた風格は、「虚擬街頭漂流記」にも通じます。
収録作は、殺人事件にロボット三原則を交差させたロジカルな構図の現出が秀逸な「特斯拉之死」、「特斯拉之死」で言及された天才科学者の死の真相に語り手の絶望と希望を見事に描き出した「吾乃雜種」の二編。
「特斯拉之死」は、ロボット収容センターで発生した不可解な殺人事件に、エンジニアの人間とロボットが探偵役としてその謎を解くというもので、殺害現場の特殊な状況から物理トリック的な仕掛けを凝らした作品、と――フツーの本格ミステリとして読めばそうなるものの、そうそう一筋繩ではいきません。
物語はロボットが一般社会にも普及し、人間とロボットの共存が実現した近未来を舞台としており、その一方で、先鋭的な科学者を中心にロボットに対する人間の感情にも微妙な変化が見られているという設定が巧妙で、そこにロボット三原則が内包する問題点を指摘しつつ、三原則を事件の構図とそれを描き出すロジックに組み込んでいるところが面白い。
前面に押し出された殺害現場の特殊状況とその謎解きばかりに眼がいってしまうのですが、本作最大の仕掛けは、探偵役である人間の、ロボットに対する微妙な感情が誤導として機能し、それが同時に事件のさらに外側を囲んでいる、現代本格ならではのある趣向を隱蔽するための役割を果たしているところでしょう。
また同時に、人間とロボットという二つの属性を、探偵とワトソン役、容疑者と目される人物たちに配することで、事件の「犯人」だけではない、その首謀者とでもいうべき配役のフーダニットへと仕上げたところも見事で、事件そのものは非常にシンプルなものながら、人間とロボットの關係性を着目した仕掛けと構図は探偵役の人物が述懷する通りになかなかに複雑です。
しかし本作最大の眼目は、続く表題作ともなっている「吾乃雜種」で、「特斯拉之死」が人間を語り手に据えていたのと対置するかたちで、今回はロボットとも人間ともいえないある微妙な立ち位置の人物を語り手にした結構となっています。
ここで扱われる事件は「特斯拉之死」でもさらりと言及されていた過去の事件なのですが、語り手とその話を聞く人物というシンプルな登場人物の配置が見事な効果を上げていて、タイトルにもなっている「雜種」である語り手の悲哀と絶望、さらにはささやかな希望が最後の最後で明らかにされます。
「特斯拉之死」以上に殺人事件に用いられたトリックはロボット社会ならではのもので、歪んだ動機にもこの作品世界ならではの転倒を絡め、語り手の慟哭が真相開示とともにマックスになるという幕引きも素晴らしい。
この「吾乃雜種」の慟哭と悲哀は、作者である寵物先生曰く「狙っていった」と述べている通り、短編ということもあるのですがかなり人工的で、人によっては「狙い過ぎ」ととられる可能性もなきにしもあらず、……といえるものながら、同様のモチーフと悲哀の見せ方を採りつつも、ここから「虚擬街頭漂流記」の感動へと見事な飛躍を見せた作者の成長ぶりにも着目でしょう。
「吾乃雜種」は「虚擬街頭漂流記」の後に読み返してみると、モチーフや展開、さらには近未来の人間社会にたいする警鐘など、共通するものも多く、そのあたりも興味深い。例えば、「虚擬街頭漂流記」では、物語の後半まで隠されていたある人物の属性が、あのアイテムによって明らかにされるのですが、過去と現在を連関する機能を果たしたこれは、「吾乃雜種」の最後にもちょっとした変化をもたせて同様の用い方をされていることに気がつきます。
収録されている二編はいずれも短編というよりは、中編とでもいうべき長さで、二編を続けて讀みとおすことで、登場人物の關係性が悲哀と絶望を導き出すという連作としての構成もいい。「虚擬街頭漂流記」の原点とでもいうべき主題と、トリックだけではない、仕掛けを用いて人間ドラマを描き出すという本格ミステリならではの小説的技法を意識した作品という点でも作者の大きな転換点ともいえる重要作、といえるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。