傑作。道尾氏的には非ミステリではない作風の一冊、――なのでしょうけれど、一方で折り込みには「愚かでいとおしい人間の姿をミステリーの技法を駆使して描く連作」と書かれてあり、フツーの読者には「じゃあ、いったいミステリーなのか、ミステリーじゃないのか、どっちなのヨ」というところに関心が向かってしまうのではと推察されるものの、そうした奇妙な勘ぐりを軽くあしらうかのように人間の繊細な心の綾を鮮烈に描き出す技巧はさらに深み増した一冊で、大いに堪能しました。
一章ごとに物語は一応の完結を見せるという、連作ふうの体裁ではあるものの、群像劇の長編として読まれることを期待された本作、ミステリでは定番のコロシとその真相開示によって人間の酷薄を活写した第一章の最後の一文「私にはもう、探してくれる鬼はいなかった」という言葉が第二章へと繋がっていくところなど、登場人物たちの連關を意識した読みが求められているとはいえ、一章ずつ、それぞれの物語を独立したものとして読むのも勿論アリ。ただ、第三章までのダークな風格が第四章から転換して、最後の救いへと結実する結構は確かにひとつの物語として読んだ方が感動の度合いも高く、最初から読んでいくのが吉、でしょう。
「球体の蛇」以降、本格ミステリ、というかミステリとして道尾作品に接してきた「ミステリファン」にとっては、インタビューでの「自分の書いたものに関してミステリーとかトリックとかいう側面ばかり取り沙汰されるのが嫌になっていった」なんて発言を目にするにつけ、本作が果たして「ミステリなのか、どうなのか」というあたりに関心がいってしまうのはいたしかたない、――とは個人的にはマッタク考えてはいませんで、そもそも「ミステリか、どうか」「ミステリと呼べるか、どうか」というのは設問のたてかたが間違っているような気がしないでないような……、そんなものは書き手や売り手にまかせておけばノープロブレム。
読者にしてみればミステリとして読んでも面白いのかどうかというあたりが重要なわけで、結論からいうと、本作もまた道尾氏がミステリとして書いた小説や非ミステリとして書いた小説と同様、折り込みにもある通りに「ミステリーの技法を駆使して描」かれた風格で、ミステリーであることを意識しながらの読みもシッカリと受け入れる強度をそなえた一冊、といえるのではないでしょうか。
インタビューで道尾氏曰く「一章と二章にはいわゆるトリックと呼ばれるものが入って」いるとのことで、実際、この二つの章に関しては、コロシという事件が謎として添えられているという結構ながら、現代本格として読んだ場合、「ミステリーの技法」がより鮮やかに感じられるのはむしろ後半で、例えば第五章の「風媒花」は、病に伏した姉を気遣う主人公が家族の繋がりをあらためて振り返るという展開で、コロシもないし、一見すると謎らしい謎も見当たらないという作風ながら、あるモノの真相が明かされた瞬間、この作品に描かれる主人公の主観描写の変転を支えているものは現代本格で用いられるあるものだったということが判ります。
そして現代本格のこの技巧を意識することで、主人公が様々な「誤解」とそれを生じさせるにいたったある人物の様々な行いの背景が見えてくるという結構が秀逸で、またそれをただのサプライズにとどめることなく、そこから主人公の家族に対する思いを再構築してみせた幕引きも素晴らしい。
そして、こうした一見すると事件も何もないような、ミステリらしからぬ構成と展開の中にミステリーの技巧を駆使した本作の風格に気がつくと、「トリックと呼ばれるものが入って」いる一章と二章に関しても、また違った読み方をしてみたくなる誘惑にかられるわけで、特にこのふたつの章で着目したいのが、道尾ミステリならではの誤導と、近作にはより強く感じられる「謎」の見せ方に対する新たなアプローチ。
第一章では確かにコロシという事件が描かれるものの、語り手が呈示してみせることで大きくクローズアップされている謎はそちらではなく、自分の母親に関するあることです。読者に向けられた驚きはコロシという事件の謎解きに関するフーダニットなわけですが、敢えてミステリ的な驚きとして機能するこちらから読者の目を逸らすかのように仕掛けられたもう一つの謎の扱いに気がつくと、本作に込められた「ミステリーの技法」がよりはっきりと見えてくるような気がするのですが、いかがでしょう。
また第四章についても、これとある事件が起こって、それに対するフーダニットが本作の「謎」を支える大きな要になっているものの、ことさらにこうした謎を前面に押し出すことなく、逸話のひとつとしてさらりと描いてみせた淡泊さが、ある登場人物の隠された行為と、それを行わなければならなかった心の痛みをより鮮やかに見せているところなど、「ミステリーの技法を駆使した」「ミステリーではない」作品だからこそ「ミステリーの技法」を考察することで、登場人物たちの繊細な心の動きが見えてくる作品であるといえるのではないでしょうか。
以前の、ミステリであることを意識した道尾作品だと、ある登場人物の視点に読者の意識を固定させ、それがミスディレクションの絶妙な效果とともに真相開示の段階で大きな驚きをもたらしていたわけですが、本作の場合、読者の意識をことさらにある人物の一視点に追従させるような動きは控えめに感じられます。しかし「騙してやるぞ」という闘気が見えない自然体だからこそ、登場人物たちも知らなかった真相がより読者の胸に響くという本作には、達人の域に達した一冊、ということもできるでしょう。
初読時には敢えてミステリを意識せずに進め、再読の際には作品に込められた「ミステリーの技法」を探るかたちで讀み進める、――というのが個人的なオススメながら、ミステリかどうか、といったところは意識してもしなくても、充分に愉しめる一冊といえるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。