傑作。「龍神」はやや愉しみ方を間違えてしまったことを自覚して、今回は完全に自然体で挑んだゆえ、大いに堪能しました。結論から言うと、従来の「本格もの」としての道尾ミステリ、といったあたりはあまり意識せずに読んだ方が愉しめる作品のような気がしておりまして、この理由については色々とあるのですが後述します。
物語は、ノッケから悲劇的な結末を感じさせるプロローグから始まります。語り手は何やら大変な出来事に出くわしてしまったらしく、「目の前のすべてが逆さまになった」とい独白しているくらいだからその驚きたるや尋常ではありません。さらにこのシーンには「葬祭場」という言葉が添えられている通りに、誰かの死を濃厚に予感させるわけで、語り手の「十六年間」の苦悩とはいったい何なのか、そして語り手はなぜ今、この物語を語り出さなければならないのか、……等等、このプロローグのシーンだけでも様々な謎が鏤められています。
本作は大きく三章に分かれて、ある女性との運命的な出逢いと別れが綴られるとともに、第一章の出来事が語られる時点ですでに亡くなっているある人物との追想をその運命的な出逢いに重ねるかたちで描いていきます。シロアリ駆除の仕事を手伝っている主人公とオッサンとの軽妙な掛け合いなどは「カラス」を彷彿とさせる風合いながら、プロローグからいかにも悲劇的な事件が仄めかされているゆえ油断がなりません。
やがて主人公はその運命的な出逢いに導かれるように、周囲のこれまたとある人物の制止も厭わずズルズルと関係を重ねていくわけですが、それがミステリ的な「事件」へと繋がっていく展開は期待通り。
しかし本作では、この放火事件の犯人捜しへと単純に流れていかないところが、本格ミステリとしてはやや趣を異にするところでありまして、語り手は探偵的行為によって事件の犯人を確信しながらも、この運命的な出逢いから線引きされた宿業に流されていく展開が第二章の物語の中心で、事件の謎解きを中心に据えて物語を推進していく「シャドウ」など、かつての本格ミステリの定番的な結構を意識した作風とは違ったアプローチでこの後の展開が綴られていく、――こうした構成から、本作を「本格ミステリとして弱い」という印象を殆どの讀者が持たれてしまうのでは、という杞憂もあるにはあったりするわけですが、それぞれの章には驚きの反転、――それも「ラットマン」で縦横に駆使した誤導の技法を投入して読者を驚かせる仕掛けが凝らされているところは秀逸です。
とはいえ、本作に用いられている「ラットマン」の技法が、「ラットマン」のような驚きとはまた違った質感を持っていることもまた事実で、この質感の違いを人によっては「本格ミステリとして弱い」という方向に感じてしまうかもしれません。しかし人によってはこの「弱い」と感じてしまう質感の違いの所以も、ジックリと本作の文章を通読してみれば判明することでもあり、放火事件という「ミステリ」を志向した謎の扱い方もその理由のひとつではあるのですが、個人的には、本作に採用された一人称の語りの戦略が、読者を騙すことよりも、主人公の内面の変転を前面に描き出すことを目的としているからのような気がするのですが如何でしょう。
「ラットマン」における誤導は、地の文でジックリと主人公の内面を描き出すことで、読者の視点を完全に主人公の内面に重ねてみせ、それが主人公の内面の変転を物語の外側から眺めている読者には「騙し」と「驚き」として認識させる効果をもたらしていたわけですが、本作に採用された一人称の語りにおいては「ラットマン」や、あるいは「龍神」のように、読者の視点を語り手の主観に「重ねる」という技巧は採らず、語り手の心を思いのままに語らせるという戦略が用いられているがゆえ、視点を重ねることによって読者にも主人公の内心の驚きを実体験させるという、――「ラットマン」においては本格ミステリ的な誤導の技法として認められた仕掛けの効果はそれほど強く感じられません。
その一方で、仕掛けがありながら「ラットマン」的な人工性を強く感じさせず、より一般小説的な風格を感じさせる効果をあげていることに注目すべきで、本作におけるこうした志向は、放火事件という「謎」を物語の推進力として中心に据えることなく、むしろプロローグに鏤められている様々な謎、――語り手が「逆さま」「反転」という言葉で現した出来事とは何なのか、そしてこれは誰の「葬儀」なのか、語り手はこの物語を語り始めるのがどうして今なのか、十六年前の出来事とは――によって読者を惹きつけていくというプロローグのシーンからも大いに感じられます。
「事件というあからさまな謎を中心に物語が展開し、探偵の謎解きによって最後にどんでん返しが待っている」といった本格ミステリでは定番の流れは意図的に退けられはいるものの、プロローグのシーンに仄めかされた様々な「謎」を読者に「汲み取ってもらう」ことで、物語の要所要所に驚きの仕掛けを持たせているという風格は、現代本格としては非常に洗練されたものながら、上に述べたような本作のこころみは、真備シリーズや「シャドウ」など、道尾氏に「本格ミステリ」を所望する読者にとっては評価が分かれるカモしれません。
個人的には、「ラットマン」的な誤導の技法を複雑化させた「龍神」とほぼ同じ時期に、むしろその技法をこうした形で表出してみせたところが大いに興味深く、ジャケ帯には「最新最高到達点」とはあるものの、その「最高到達点」は、「シャドウ」「ラットマン」「龍神」とは異なるような気がします。まあ、宣伝文句としては「最高」「最新」と激しく煽りたてることも必要だとは思いますが、「ラットマン」「龍神」とは「驚きの装置」として仕掛けや誤導の技法の表現方法が異なるゆえ、讀後、「最高って聞いたから期待したのに話が違うジャン」なんてブーたれてしまう読者もいるやもしれないので、一応そのあたりについては取り扱い注意、ということで、……なんてことをグタグタ書いてしまうのも、やはり連城氏の「恋文」などが本格界隈ではマニアには本格として認められられなかったらしい、という話を耳にしてしまっているからでありまして、個人的には道尾氏には「龍神」よりも本作の方向性でまた傑作を書いてほしいという思いが強く、本作が「本格ミステリとして弱い」という認識が喧伝されてしまうと何だか嫌だナーと感じている次第です。
あと、この語り手に対する容赦ない扱いについては一瞬「これって道尾版『ボトルネック』?」と感じてしまったことを付け加えておきます。現時点で一番好きな道尾作品は?と訊かれたら恐らく本作の名前を挙げたいと思わせるほどに自分好みの一作であったゆえ、「恋文」も現代本格の傑作として評価できる現代本格の読み手にこそ「本格ミステリとして弱い」「これって本格じゃないよね?」なんていう感想とは違った「読み」によって本作の物語を堪能していただきと思います。現代本格の愉しみどころに知悉した方にこそ読んで貰いたい傑作、といえるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。