第29回横溝正史ミステリ大賞優秀賞受賞作。 ライトノベル出身の作者の手になる乙一っぽいタイトルの作品、ということから、フツーの本格ミステリ読みであればある種の先入観を持って構えてしまうのは必定で、冒頭に描かれるかなりショッキングなシーンがどのような乙一的「癒し」へと結実するのか、……と、そんなことを考えながら読み進めていったのですけど、結論からいうとそうした先入観はいい意味で裏切られました。このあたりは後述します。
物語は、僕が渋谷のハチ公前に女の首なし死体を置きに行く、という吃驚するようなシーンから始まるのですけど、いったい何を「謎」ととらえるべきなのか、そのあたりはまったく明らかにされないまま、語り手である僕のリーマン生活が淡々と描かれていきます。
このリーマンの日常が一昔前の連ドラを彷彿とさせるチープさで、危機一髮のところを主人公が機転を利かせて窮地を脱したりといった逸話が描かれる一方、「これってたつひこ師匠リストペクトの『光る風』?」みたいにいきなり停電になるわ地震は起こるわと、これまた一昔前のマンがっぽい強引な展開も添えて、タイトルにもなっている「首なし死体」のことはどうなっちゃったの? と、本丸であるべき「死体の首」は脇に置いたまま物語が進んでいく破天荒ぶりにまず吃驚。
もっとも首を置いてから語り手のところにかかってくる不審人物からの電話や、中盤に死体の指が持ち去られるなど、「いったい何が起こっているのか」というフウに奇妙な展開の中へ謎を添えた結構は盤石で、それらが語り手の不可解な行動とどう繋がっていくのか、――と、頭の中で本作における謎の樣態をイメージしながら読み進めていくと、最後には件の停電に絡めて急転直下ともいうべき展開を見せる後半にはやや唖然。
こうした性急な謎解きの中にどんでん返しも添えて、語り手の心の内と不可解な行動の眞意が明かされていく結構は秀逸で、何故に語り手と同僚、美人室長も交えたリーマンライフがこうもかなりの分量をさいて描かれているのかという疑問が、この真相開示によってイッキに繙かれる構成に注目でしょうか。
婚約者がいる美人室長と何となくいいカンジになっていきそうな語り手との恋愛未滿の関係や、型破りな行動で窮地を脱する語り手のキャラ立ちなど、一昔前のチーフな連ドラめいた風格が、いずれも真相開示と「犯人」の動機にも繋がっているというところも秀逸です。
ただ、ごくごくフツーの本格ミステリ読みの方のほとんどは、中盤あたりまでは本作の讀み方を間違えてしまうに違いなく、途中で何度も軌道修正を強いられるような気もします。それは冒頭にかなりショッキングがシーンが描かれながらもその一方で謎の樣態がはっきりしない、あるいはさせないという作者の目論見ゆえでもある譯ですが、……たとえば、早々に死体の首にレシートがくっついていたことから、そのレシートから「犯人」の身許が割れてしまうのではないか、という流れを仄めかして「倒叙もの」であるかのような雰囲気を漂わせたり、あるいは「犯行」を目・腺していたコンビニ店員が事件の日付を一日誤って記憶しているという事実を明かしながら、これも実は語り手の記憶違いではないのかと「サイコミステリ」的な暗示を行って見せたりというフウに、物語の細部においては読者をどのような方向に導いていくのか、という点で、本作には「搖らぎ」があります。
しかし、讀了してのち、語り手が何故首をそこに置いたのかという「動機」から、さらにはその背後に隱されていた奸計にいたるまで、作中での狙いを咀嚼した後であらためて讀みかえしてみると、語りの手のさりげない一言が巧妙な伏線となっていたことが判ります。
たとえば、二ページ目の、「東京の朝」のシーンに託して「誰がだれなのかわからない。だから僕はわざわざ、こんなことをしなければならなくなった」という台詞の巧妙さ。それとともに、語り手がああした奇妙な振る舞いをするにいたった本来の目的が、様々な事件を經てどのようなかたちに決着したのかという点を見れば、そこにある種の無情と虚無を讀みとることも可能であろうし、この結末がまた物語の中ではほとんど語られることのなかった件の首なし死体の女性の心情を際だたせているところも素晴らしい。
という譯で、ややありきたりな結末に落ち着きながらも、個人的には結構滿足度の高い一冊だったのですが、ちょっと、というか、かなり疑問に思ったのは、作品の内容そのものよりも坂東氏の選評でありまして、氏は本作を「最も不快感を覚えた小説だった」といい、その不快感の理由は主人公の性格造詣にある、と続けます。
……真っ先にいえるのは、主人公「ぼく」の性格や心理があまりにも曖昧で、好きになれないということ。その理由は「ぼく」の存在が、常に事象の上にあり、他者を見下しているようなところにある。それが哲学的、人間的な意味での上位性からきているのならばまだ納得するが、「ぼく」が、それほど尊敬できるような人物に描かれていない点が問題だ。何の説得力もないままに、「ぼく」はすべてのものを超越し、何事にも冷靜で、淡々としていられる人物として描かれている。作者の自意識過剰が、主人公に投影された結果ではないかと思う。
うーん、物語の世界観から登場人物の造詣にいたるまで、そのすべてを「謎―推理」という構造に還元しないと気が済まない本格読みとしては、坂東氏のいう「ぼく」の「常に事象の上にあり、他者を見下しているような」性格は非常に納得できるものでもありまして、本格ミステリとしての作者の試みは一切無視して登場人物の造詣にブーたれてみせるという氏の発言に、個人的には新本格黎明期の「人間が書けていない」というブーイングを思い出してしまった次第でありまして。
本作の場合、最後に明らかにされる「眞犯人」が「ある犯行」を行うにいたった「動機」とそのあまりに稚拙な思考回路を鑑みれば、「探偵」である「ぼく」の性格はそうした「眞犯人」の性格と「対蹠」されているわけで、「ぼく」がこうした性格に「設定されている」のは、「ぼく」がこうした奇妙な振る舞いを行うにいたった「ある事件」を発生させるための「必然」であったことが判ります。
つまり、「ぼく」がこうした「常に事象の上にあり、他者を見下しているような」性格でないと、そもそもこの物語で語られる事件は決して発生しえない譯で、また、「冒頭に謎が提示され探偵がそれを推理によって解明する」という本格ミステリとしては定番の結構を持たずに謎の樣態も判然とせず、さらには時に倒叙ミステリ的な展開をにおわせている本作の結構について考える必要がある譯で、「ぼく」が「犯人」ではなく「探偵」であったという最後に明らかにされる「真相」を鑑みれば、この語り手の「ぼく」が、本格ミステリにおける探偵像としては定番ともいえる「常に事象の上にあり、他者を見下しているような」キャラであることも納得出来るというものでしょう。
さらにそうした倒叙ミステリをにおわせた構成に着目すれば、こうした「ぼく」の性格設定も、「犯人が探偵だった」という真相の「伏線」ともとらえることが出来る譯で、そうした本格ミステリ的な「読み」を完全に無視して、ただただキャラが氣に入らない、とブチあげるのみならず、挙げ句に「作者の自意識過剰が、主人公に投影された結果ではないかと思う」とまで言い切ってしまうのはいかがなものかなア、と感じた次第です。
もちろん、「ミステリだって所詮は小説」とばかりに、作者が物語の中に凝らした「本格ミステリ」的な奸計などは一切無視して、登場人物の性格設定なんざア皮相的にとらえるだけで良し、とするような「物語を殺す」讀み方が楽チンなのは確かにその通りなのですけど、本格ミステリ読みであれば、「謎のぼかし」や「倒叙ミステリの僞装と暗喩」「犯人―探偵の對蹠の構図」といった作者のたくらみを漏れなくすくい取るような讀み方を本作ではオススメしたいと思います。