東氏の「怪談文芸ハンドブック」を、このなかに紹介されている作品を本棚から取り出したりして寄り道しつつ、読んでいるのですけど、ここで開陳されている怪談を讀むときの極意とでもいうべき技法を意識しながら、少し前の、――現在の怪談ブーム以前の「ホラー」作品を讀んでみたらどんな感じなんだろう、ということで今日は、少し前の、クラニーの筆になる「怪奇小説」の一冊を取り上げてみたいと思います。
本作を今回再讀してみたのにも理由がありまして、この作品のあとがきで、倉阪氏が「ホラーと怪奇小説の違い」などについて「前向き」「後ろ向き」という言葉を巧みに用いつつ、非常に明快な考えを示しており、これがまた東氏の「怪談文芸ハンドブック」に書かれてある内容と通底するようにも思われたからで、このあたりを引用してみると、
……ホラーと怪奇小説は微妙に違う。超自然的な要素が不可欠という点では同じでも(コンセンサスを得られているとは言いがたい意見だが)、怪奇小説よりも前向きなホラーにはいろいろと夾雑物が混じり、ともすると、むやみに長くなる。本質的に短編作家である私は、どうもそのあたりが気に入らない。読者も評価を待つしかないけども、作者としては斯界の「保守本流」を歩んでいるつもりでいる。
……
また、「後ろ向き」の怪奇小説においては、実体験を下敷きにしたものでなくとも、多かれ少なかれ過去の風景が不可欠なようだ。最初の三作の「納屋」「沼」「家」は、すべて郷里に原風景がある。
「超自然的な要素」「短編」に「夾雑物」と、怪談をとらえる上でもハズせない言葉がさらりと並べられているあたりが流石クラニー、といったかんじなのですけど、ちなみにこの作品がリリースされたのが平成九年で、本格ミステリを書けばあれだけハジけた作品を書き上げる倉阪氏が、こと怪奇小説に関しては「保守本流」であろうと宣言しているあたりも興味深い。
かといって本作に収録されている作品が、では懐かしゴシックの風格ばかりを強調させた古いだけの作品かというとそんなことはなく、ときには本格ミステリの技法にも通じる伏線や「ずらし」など巧みな技法を駆使しながら、本格ミステリにおける「驚き」の代わりに「怖さ」を喚起する結構へと仕上げてみせるところなど、綾辻氏と同様、ミステリと怪奇小説を両輪として創作を続ける倉阪氏ならではのうまさが光る一冊です。
前置きが長くなりましたけども、収録作は、赤い羽根を異様に恐れる男のトラウマが怪異の様態に恐ろしい「歪み」を引き起こす「赤い羽根の記憶」、稀覯本にまつわる怪異が語り手をイヤ地獄へと引きずり込む「底無し沼」、幽霊退治が最後に青いアイリス的な盛り上がりを見せる「黒い家」、前三作の登場人物たちにまつわる隠しネタが怪奇語りの場で披露される「百鬼譚の夜」の全四編。
個人的にはやはり「赤い羽根の記憶」がピカ一で、初讀時にも、その訳の分からない「歪み」というか「違和感」溢れる「最後の一撃」にぞっとなってしまった一編です。飲み屋で知り合った精神科医から狂人の奇怪な手記を手渡され、――という話で、赤い羽根を異様に恐れる男の過去には何があったのか、という、ある種の定番ともいえる結構で物語は進んでいくのですけども、物語の要所要所に現れる幽霊なのか何なのか、ハッキリしない気配の描写がまた見事で、怪異の様態の視点から見れば、語り手が見た幽霊めいた存在が実は絶妙な誤導として機能しているところも秀逸です。
当然、ここでは狂人が過去に何か「やらかして」いて、それがトラウマになっているんだろう、というのが読者にしてみても容易に想像できるところながら、その「やらかして」しまった対象と、怪異として現れた「もの」との「ずれ」がキモ。これを最後の一行によってイッキに明らかにしてみせる構成もうまく、そこで明らかにされた「真相」から、「それ」が幽霊となって出現するまでの時間を想像するにつれ、ゾーッとなってしまう一編です。伏線、誤導といった本格ミステリの業師ならではの技法を凝らしながら、最後の一行で謎解きをしてみせる結構も含めて素晴らしい一編でしょう。
「底無し沼」は、これまた「仄めかし」をこれでもかこれでもかッというくらいにリフレインしてみせる構成がミソで、とある稀覯本と、その作品の作者の謎めいた存在、さらにはその沼には何があるのか、――等等、土地と人間に謎を分散させつつ、その連關が最後に怖さを醸し出すという一編です。鏤められた謎とともに、言葉の断片が繰り返し繰り返し語られて読者に想像を促すところにも怪談ならでは味があり、これもまた最後の最後で件のブツがあれになっていた、というところからアンチ・ミステリならぬオチがハジけて、それがまた怪異の真相をうつろなものへと落とし込んでしまうという幕引きもいい。
「黒い家」は倉阪氏自ら、アルジェントを意識したという後半の展開のやりすぎぶりが微笑ましい一編で、要するに幽霊屋敷へ殴り込みをかける語り手たちが、件の家で期待通りの怪異に遭遇する、――という物語ながら、ここではクラニーがどんなかたちでアルジェントの風格を取り込んでいるのかに注目でしょう。個人的にはやはり狂女の声だけが聞こえてその姿が見えない、というところから爆発の展開へと盛り上げていく構成に、やはり青いアイリスをイメージしてしまいます。
しかし幽霊屋敷といっても、次々と語り手を襲う怪異というかギミックの大盤振る舞いが、幽霊屋敷というよりは、テーマパークのお化け屋敷へと流れてしまっているあたりはご愛敬というか、思わずやりすぎでしょッと感じてしまうものの(爆)、実は讀んでいる最中はそうした脱力的風格は感じられず、寧ろ怖さが極まるギミックの添え方に感心至極、――とはいえ、このあたりも冷静に考えると、「そういやア、遊園地のお化け屋敷っていうのも、も入っている間は怖くて怖くてギャーギャー悲鳴をあげてしまうけど、出てきたら何であんなのが怖かったんだろナ」なんて感じてしまうこともまた事実で、その意味では、お化け屋敷的な結構を正確にトレースした作品ともいえるカモしれません。
「百鬼譚の夜」は、そのタイトルかも想像できる通り、あやかし語りが物語の中に挿入されている構成で、そのうちのいくつかは前に語られた「赤い羽」や「底無し沼」でお茶を濁しているというものながら、人形供養のネタは何か非常に歪んだ真相に怖さというか、イヤーな感じを覚えてしまいます。これは「赤い羽根の記憶」もそうですが、全てを語らずに、そこで明かされた「真相」から、作中では「語られなかった」ことを読者の想像に委ねてみせるという、怪談ならではの結構が光っています。
個人的には「赤い羽根」だけも買いも一冊で、私家版で怖い怪談のアンソロジーを組むのであれば、この一編だけは入れておかなくちゃ、と思わせるほどのお気に入りながら、これは先も述べた通り、読者に想像を促し、その真相の背景の怖さに思いを巡らせてゾッーとしてもらう、という構成ゆえ、真相を知ればそれでオシマイという読書スタイルの方だとこの怖さにはあまりピン、とこないカモしれません。
という譯で、倉阪氏があとがきに述べている「怪奇小説」としても讀むもよし、また怪談ブームの現在においてはブーム以前の掘り出しものとして愉しむのもアリだと思います。