まず文庫版になってジャケが良くなりました。
これが、いい。以前、創元ミステリから出た時には何だかキュビズムみたいな判然としない繪がジャケになっていて、第一印象からしてちょっとひいてしまったのだけども、文庫版の装丁はこの物語の精緻な作風を髣髴とさせる素晴らしいもので、これだったら本屋で手に取ってみたひとも「ちょっと讀んでみるか」という氣になってくれるのではないでしょうか。
本作は澤木喬のデビュー作。デビュー作といってもこの作品以降、まったく音沙汰がないので、現時點では一発屋といわれてしまっても仕方がないんでしょうねえ。でも佐々木俊介みたいな例もあるし、あるとき、突然素晴らしい作品をひっさげて見事な復活をしてくれるやもしれません。
さて、本作も昨日とりあげた若竹七海と同樣「日常の謎」派に分類されるであろう作品ではあるけども、何というか風合いが全然違います。
まずこの作品の文章。小説である前に詩であり、アフォリズムなんですよ。それも遠近を自在に驅使した目眩く文体で、植物學の蘊蓄と分類学者でもある「ぼく」の思索を含んだ語りが交錯する、ちょっとほかには例のない、獨特のリズムをもった文章なのです。ここで好き嫌いが完全に分かれてしまうような氣がします。
何しろ最初の一文からして「山は一つの別世界なのだ、などと思いながら帰ってきた」ですからねえ。ミステリというよりは、詩ですよ、これは。
自分の周囲の交友関係について訥々と述べていたかと思うと、唐突に植物學の衒學めいた文章があらわれ、さらには上にも引用したような語り手のアフォリズムがすっと紛れ込んでくる。
「ぼく」によって語られる事象の萬事が萬事そんなかんじですから、彼によって語られる事件もまた非常に抽象的で、どこかとりとめのない、あたかも夢のなかの出來事のような雰圍氣が漂っているんですよ。
最初の「いざ言問はむ都鳥」で語られた事件も、最後の「むすびし山のこほれるを」に至っては、本當にあのような事件はあったのか、それはただ單に語り手である「ぼく」と推理を披露してみせた彼の友人とでつくりだされた空想に過ぎなかったのではないかと回想し、結局「ぼく」はそれを確かめることを拒絶します。「それは問わない。問うべきではない」と宣言し、末尾に引用されたゲーテの言葉が深い餘韻を殘して、この物語は幕を閉じる。……
この終わり方って、……「日常の謎」系というよりは、アンチ・ミステリに近いのでは?
という譯で、作者が當事台頭してきた「日常の謎」系の作家群のなかに「分類」されてしまったのは本當に不幸としかいいようがないように思うのです。作者である澤木氏がミステリという枠のなかで爲し遂げようとしたことは、もっと違うものだったのではないかなあ、と本書をいま再讀してみて思いました。
さて、最後に語り手である「ぼく」なんですけど、ジャケを開いたあとに書かれているあらすじを讀むと、「沢木敬、分類学者、趣味はヴァイオリン」とあります。もうお分かりですね。昨日「僕のミステリな日常の」のところでちょっとふれた沢木敬っていうのは彼のことでして。この物語も、立教大学ミステリ・クラブの人々に送られているし、もしかして若竹七海がちょっとした遊び心で、この沢木君を自分の作品になかに登場させたのかな、と思った次第。