という譯で、前回の續きです。
『幻影城』創刊のいきさつ(續き)
三島由紀夫が自殺する三週間前、彼から家に來るように言われましてね。私はそれまで作家の家に赴いて顏を会わせたことなどありませんで、会うとしたら外で珈琲を飮むか、酒を飮むかというかんじでしした。三島由紀夫に会ったときの話の詳細については、以前日本にいた時、文章にして発表したことがあるんですけど、これも話すと長くなるんですが、三島由紀夫の家っていうのは、書齋のほかに書庫がありましてね、書庫は藏書のためで、書齋にはいつも使う資料がおさめられていました。彼が言うには、書齋は皆、彼の奧さんが管理しているということでした。
もし書誌のために必要な資料があるならば、彼の奧さんが色々と手傳ってくれる筈なので、彼の奧さんに話をすれば大丈夫だろうと。そして彼は私にどのくらいかかるかと聞いてきたので、私は、早くてまあ半年くらいかな、と答えました。そのときは彼がその三週間後に自殺するなんてことは勿論知らなくて、書誌の出来も十分の一に滿たないほどのところで、彼は自殺してしまったわけです。その当時、出版社と三島夫人は書誌を編集していたことなんていうのは公にしていませんでしたけど、結局、それは一年後に出版されることになりました。
彼の自殺は一九七十年の十一月三日。日本で言う「文化の日」のことでした。三島由紀夫にとって、自殺を決行する日には意味があったんですね。文化の日とは何か? それは天皇誕生日だと。
彼の自殺後、私の編纂したその書誌は、三島由紀夫研究におけるもっとも詳しい資料となりました。これは六部に分かれていて、その中の一部は三島由紀夫の藏書目録になっています。これはかなり詳しく、藏書の内容について纏められています。
三島由紀夫の作家としての活動は、だいたい三十年くらいでしょうか。その中の一部には、三十年の間、新聞や発表された評論を載せています。さらに作品のドラマ化や映画化、舞台になったものなどのすべてですね。三島由紀夫は國際性のある作家でしたから、もし彼が切腹自殺などしなければ、日本人としては二番目にノーベル文学賞を獲ったに違いありません。
そんなわけで、その書誌は三島由紀夫の研究には大変役立つものとなり、そのおかげで私の書誌學者としての地位もかなりのものとなったわけで、日本の文学年鑑などを見ると、私の肩書きは評論家ではなく、書誌学者ということになっています。
それからしばらくして、「幻影城」を月刊化する三ヶ月前のことでしたか、その間に「EROTICA」の月刊化の話がありました。經營状況は赤字でしたから、ここで推理雜誌を出して帳尻を合わせようとしたわけですね。ただ日本で雜誌を出すといっても、顏見知りのプロも、また作家もいませんでしたから、たとえ資金があってもそうした專門雜誌を出す方法がない。
日本においては、雜誌に掲載される文章というのは皆、作家に直接原稿をお願いするものであって、投稿などではありません。そのときの出版社の社長というのが、私の友人である紀田順一郎に誰か推理雜誌の編集者を紹介してくれ、といってきていまして、そこで、彼が私を推薦してくれたというわけです。私は早稻田のミステリ研、そして彼は慶應の推理小説研究會の会員でした。双方の大學同士で毎年交流會を催したりしていたので、お互いに顏見知りでした。紀田順一郎は現在、「神奈川近代文学館」の館長をやっていて、日本では大變有名な評論家です。
で、その社長というのが大變に豪放磊落な人物でして、私に面と向かって百パーセントの編集權を要求してきたりしてね、それで私たちは一年の契約をして、雜誌を出せるかかどうかやってみようじゃないか、ということになりました。
何故雜誌の名前を「幻影城」にしたのか、ということですが、日本の推理小説界でもっともよく知られている人物といえる江戸川乱歩の評論集の書名に由來しています。これがまた素晴らしい評論集でしてね、すべての権利が私のものになって、雜誌の名前は私が決めていいことになっていましたから、――ある日、風呂に入っているときにこの名前を思いついたのです。「幻影城」は評論集ですが、商標などはありませんから、道義上はきちんと江戸川乱歩の同意も得ておく必要があるとはいえ、彼がこの世を去ってすでに十年以上は經ってしまっている。
そこで私は乱歩夫人に電話をしまして、今度お会いしたいと、そう言いまして、それでその翌日、さっそく私は池袋にある乱歩邸に夫人を訪ねていきました。リビングでは江戸川乱歩が収蔵していた「少年像」の油絵を見ることが出来まして、大きさは五、六号くらいだったか、それは推理小説のファンの間では大變有名なものでしてね。乱歩は以前、エッセイの中でその絵の由來について述べています。
「少年像」を書いた画家、村山槐多は幻想小説家で、乱歩にとっては先輩にあたります。何故「少年像」の話をここでしたかというと、そこにはちょっとした秘密があるのですけど、ここでその話をするのは差し控えます。とにかく、私にとってその絵は非常に印象深いものでありました。そして乱歩夫人の同意を得た後、「幻影城」の名前を雜誌に使うことになったわけです。