傳博こと島崎御大の訪日が某掲示板にて告知されていて、この情報が業界内だけのオフレコだと思っていたド素人の自分はチと吃驚、――という譯で、今日は、島崎御大の本格ミステリ大賞特別賞受賞と訪日記念、ということで「推理雜誌」281號に掲載された林佛兒御大との対談「推理小説在台湾 ――解嚴二十年後推理小説發展」から、島崎御大の発言を抜粋したものをお送りしたいと思います。
対談の方はタイトルにもある通り、台湾における推理小説の發展について論じたものながら、「幻影城」創刊のいきさつや最近の台湾における日本のミステリの出版状況などについての意見もあり、非常に興味深い内容となっているのですけど、今回は日本のミステリ讀みも関心をもってくれるであろうところを中心に取り上げてみます。結構長いので、數回に分けて、ということで。
推理小説在台湾 ――解嚴二十年後推理小説發展
2007年國家臺灣文學館週末文學對談「臺灣藝文風潮」第九場次作家 林佛兒
學者 傳博
日時: 二〇〇七年十月十三日
場所 : 國家台湾文学館『幻影城』創刊のいきさつ
林佛兒……
『推理雜誌』創刊についての話をする前に、私としてはまず傳博(日本名島崎博)さんが創刊されたこの『幻影城』を創刊するまでのいきさつを振り返ってみたいと思います。それはどのようにしてなされたのか。ここがとても重要なところですよ。何故なら台湾ではいくつかの大學のミステリ研の方々が知っていることを除けば、殆どのひとはこの雜誌についても知らないわけです。今、皆さんが御覧になっているこれが『幻影城』創刊號の表紙でありますが、何十年も前の雜誌だというのに大変モダンでオリジナリティのあるデザインであります。それだけでなくまた多くの作家を生み出したこの『幻影城』の発刊はおおよそ二十年ほども前のことで、傳博さんが台湾に帰られてから既に二、三十年も經っているのですが、今回、かつて幻影城に關わった有志や讀者、作家たちが彼を懷かんで『幻影城の時代』を編纂しました。
この中の「回顧編」の内容はすべて、彼一人を取り上げたものでありまして、これは本当に凄いことであります。日本を離れてすでに三十年も經っている人物である彼を、かつての讀者と作家がこんなに懷かしんでいる。三十年も前に創刊されたこの雜誌――、さて彼は何故『幻影城』を創刊したのか。これは非常に興味深いことですよ。
傳博……
私は一九五五年の二月二十二日の深夜零時に日本に到着いたしまして、そのとき、東京にはまさに雪が降っておりました。それですぐに風邪をひいてしまいましてね、その翌日には藥局へ藥を買いに行ったのですけど、そのすぐ隣に古本屋がありました。そこでとりあえず推理雜誌の『宝石』を買って帰りまして、三日目にはもう神保町に行ってました。神保町には古本屋が八十軒ほどもありまして、日本に行ったことのある人は皆が皆、それを目の当たりにしてたいへん驚いていたわけですけど、これは一種の日本の文化でありましてね、実際、日本の古本屋のご主人というのは學者といってもいいくらいで、頭もすごくいい。
日本にいるときは、大學の授業もできるだけ午前中のものを選ぶようにして、昼食を済ませた後はすぐに古本屋に足を運んでいましたね。大學を卒業するときにはもう、どの古本屋がどれほどのものかというのを見分けることも出来るようになってました。もっともうまくいった例としては、こんなことがありました。店の外に並べられていた一冊三十円か、五十円ほどの本の中から一冊の詩集を手に入れましてね、そのときは五十円を使って、そこから歩いて三分ほどの別の古本屋まで足を運び、結局、店の主人はその本を五千円で買い取ってくれましたよ。当時の日本での一ヶ月の生活費が三万円でしたから、台湾の銀行の部長の一ヶ月分の給料と同じです。その五千円は一晩で使ってしまいましたけどね。すべて他の本を買うために。そんなわけで私の藏書はなかなか有名になりましたよ。
六十二年当時、日本でもっとも有名な推理雜誌といえば『宝石』がありました。この雜誌には「作家の周辺」というコーナーがありまして、これが樣々な角度から作家を研究してみようというものだったのですけど、三つの側面がありまして、そのうちのひとつが作家論。二つめは評論家が作家を訪ねるというもので、最後が作家の資料からなっていました。
そのときは早稻田の研究所で勉強をしておりましたから、私は早稻田のミステリ研の一員だったのですけど、そのなかの一人で後にSF作家になって『宝石』で仕事をすることになる間羊太郎がいましてね。私は彼に言ったんですよ、作家の資料、あれはちょっと正確じゃないな、と。それで当時の編集長から、毎號の作家の資料は私がつくるようにと言われました。
私が日本で推理小説に關する仕事を始めたのは、研究所の二年生のときだったかな、日本に来てからはもう六年になっていたから、だいたい二十號は書きましたかね。日本の推理作家のほとんどは私の名前を知っていたのですけど、私はと言うと、担当した作家に会ったことはありませんでした。何故かというと、推理小説の評論を書こうと思っていまして、そうなるともし作家に会うと、その後、彼の作品に關する評論を書くのが難しくなってしまいますから。
『宝石』が休刊してからも、一人で色々と作家の資料をつくっていました。その後「薔薇十字社」が渡辺温の作品集を出すことになって、――渡辺温は一九三〇年に自動車事故で亡くなった作家なのだけども、彼は推理小説家でね、何故彼が事故に遭ったかというと、彼は谷崎潤一郎の原稿を屆けるときに踏切で電車に衝突して亡くなってしまったのです。作品の数こそ多くないものの、傑作といえる作品も少なくありません。しかしすでに三十年以上經っていて、作品は雜誌に掲載されてこそすれ、単行本はありませんでした。
その当時、薔薇十字社がその作品集を出すことになって、私に編纂を手傳ってくれないかと頼ってきたわけです。私は作家の資料を入れておく必要があると思っていて、それをきちんとやっておかないと、やがて時間も経てばそうしたものを見ることが出来なくなってしまうおそれもあるりますから。それに續いて今度は大坪砂男の作品集を編むことになって、これにも書誌をいれることになったのですけど、この二冊の資料はすべて私が提供したものになってます。
薔薇十字社の社長というのは女性でして、名前を三津子といいました。三島由紀夫の妹の名前が同じ三津子だったのですけど、まだ小さい頃に亡くなっていまして、彼はその女社長のことを大変可愛がっていましたね。日本の有名な作家にはすべて書誌が編まれているのですけど、三島由紀夫はあれほどの大作家にも關わらず、まだ誰も書誌を編んだことがなかった。そこで私は薔薇十字社がそれをやるべきだと提案しましてね、彼女が三島由紀夫に書誌の編集の計畫を見せたときに、私を指名してきたというわけです。
續く。