先週あたりから某所で話題沸騰、というか、大議論になっている本作なのですけど、自分としてもこの議論になっている論點について色々と個人的な意見はあったりするものの、それよりも某所でのやりとりを見ていて、本作の内容そのものの分析と批評がマトモにされないまま、喧喧諤諤と様々な意見が交わされているところがかなりアレ、と感じた次第です。
まずこの論點について議論するのであれば、本作に目を通すのは勿論のこと、作者がこの作品の中でどのようなことを成し遂げようとしたのか、またこの作品の結構は本格ミステリとした場合どのようなものなのか、という全体像を把握しないままに、中国語としての文体がどうしただの、些末なところをダラダラと述べてもマッタク意味がない譯で、……って、この議論というか論争を知らない日本人にはマッタク意味不明な呟きに聞こえてしまうかもしれませんが(爆)、とりあえず件の議論とは離れたところで、純粋に本作を本格ミステリとして讀んだ場合どうなのか、ということについて今回は述べてみたいと思います。
物語はタイトルからも明らかな通り、「ジャックの豆の木」に基づいたもので、この童話の内容を土台に本格ミステリとしての物語を組み上げたのが本作の大きな特徴でしょう。で、日本のミステリ讀みとしては、こうした有名なお話を本格ミステリとして改編してしまうというのはお家芸ともいえ、例えば山田風太郎の名作「妖異金瓶梅」や芦辺氏の歴史的傑作「紅楼夢の殺人」、さらには柳広司氏の「漱石先生の事件簿 猫の巻」などがあるというのはご存じの通り。
こうした作品群と比較するとともに、本作を本格ミステリとして讀む場合、やはりキモとなるのは、原典となる作品をいかに咀嚼して、作品の結構に謎―解明という本格ミステリとしての中心軸を持たせているかというところでありまして、本作の場合、そのアプローチは非常に明快です。
原典となる「ジャックと豆の木」は「むかしむかし……」という昔話でいう定番の語りから始まり、ジャックという少年を主人公にした物語が描かれていく譯ですけども、本作では探偵役となる人物の書記をワトソン役に配し、探偵とワトソン役がとある村を訪れたおりに、殺人の濡れ衣を着せられたジャックなる少年を助け出す顛末を、ワトソンの語りによって描いていく、――という構造になっています。
そしてそのジャックが巻き込まれた事件というのが、原典である「ジャックと豆の木」に描かれているお話そのままで、何でも少年は巨人を殺した罪で裁かれようとしている、――という風に組み替えられているのですけど、ここで注目するべきは、原典の改編の技法でしょう。
本作の場合、探偵とワトソンがとある共同体を訪ね、そこで発生した事件を解決する、という、横溝ミステリなどを典型としたコード型本格の構造を踏襲しながら、原典の組み替えを行っているところが興味深い。
言うなれば、原典のお伽噺風の物語の外側に本格ミステリとしての枠を凝らすことによって、「枠」の内側にある原典「ジャックと豆の木」の中の様々な事象を「謎」へと昇華させ、さらにはこの「枠」を讀み手側に意識させることによって、この「謎」を解明するための伏線や手がかりを構築しているところが秀逸です。
探偵が介入することになった事件は、ジャックが巨人の邸宅からものを盗んだ挙げ句、巨人を殺害したというもので、この事件の概要を第三者から耳にした探偵が捜査に乗り出すという展開が冒頭から提示されるのですけど、探偵の調査が進むにつれ、この物語の外にいる讀者は、原典である「ジャックと豆の木」の中で描かれているジャックの「物語」と、この作品の中で描かれている「事件」との「差異」に気がつく筈です。
例えば、原典の中で描かれる雌鳥と本作の中で扱われている雌鳥の違いや、或いはジャックが切り倒したという豆の樹と巨人の家との位置関係など、そうした「差異」が探偵の推理によって、最後にはことごとく事件の謎を解く伏線であったことが明らかにされていく様は本当に見事です。そしてこうした後半部に明らかにされる本作の趣向を知ることによって、お伽噺風の物語の外側に本格ミステリとしての枠を凝らした本作の構造、――この中に込められた作者の企圖も見えてくる譯で、このあたりに留意せずに、本作をただ「原典」を改編させた「だけ」という理解で終わらせてしまうのは勿体ない。
本作において中心となる謎は勿論、巨人を殺した犯人は果たしてジャックなのか、そしてもしそうでなければ犯人は誰なのか、その犯行方法は、――という、フー、ハウダニットでありながら、この「事件」の謎の中心に大きな位置を占めているのが、「原典」の世界では当然のこととして受け止められている様々な事象でありまして、本格ミステリとしての枠をこのお伽噺の世界の外側に凝らすことによって、これら原典における事象を本格ミステリとしての「謎」へと変えてしまうという技巧も素晴らしい。
一晩で天まで届くほどに成長してしまった豆の木、金の卵を産む雌鳥、自動演奏をするハープ、こうした「謎」にたいして、探偵は推理によって現実的な解を示してみせ、それによってこの巨人殺害事件の背後に巡らさせた策謀の眞相を解き明かしてみせるのですけど、ここでは「原典」の中で描かれている事象として提示される豆の木、雌鳥、自動演奏のハープという三つのそれぞれを本格ミステリとしての「謎」として提示しつつ、その各の作用が異なっているところにも注目したい。
一晩で成長した豆の木の謎を巨人殺害事件の策謀とフーダニットへの手がかりとして提示する一方、雌鳥の場合は、「原典」とこの「事件」の中で語られているところの「差異」を明示することによって、作者は、讀者にこの事件の「謎」には現実的な解が存在することを仄めかしてみせます。
こうした怪異や不可思議を本格ミステリの物語の中に取り入れる場合、それが最終的には現実的な解を与えられるべき「謎」なのか、それともそれらはこの物語世界を構成するための「設定」に過ぎないのか、というところはひとつのキモになってくる譯ですけども、本作の場合、雌鳥という事象の扱いが「謎」と「設定」とを峻別させる大きな鍵になっているところが心憎い。
そして物語の最後、事件を扱ったミステリというところを離れて、世界の反轉という現代本格ならでの醍醐味を体現するために、作者は自動演奏するハープという「謎」の眞相を解き明かしてみせることによって、「原典」となる「ジャックと豆の木」をさながら鏡像のようにまったく異なる物語へと変えてしまいます。
この作者の企圖、そして稚気は最後の頁において、ワトソンが探偵に「ある問いかけ」を行うところから明らかでしょう。「如果……」から始まるこの「問いかけ」に對して探偵は「ある答え」をしてみせるのですが、もっとも重要なのは、この探偵の意見に對して「那我再編……」という言葉によって語り手であるワトソンが示してみせた「物語」の内容です。
この本格ミステリとしての謎―解明の展開を通過した後にワトソンが示してみせたこれから描かれる「物語」と「原典」との差異、――特に「原典」における巨人と探偵の意見、そしてワトソンが示してみせたこの「物語」における巨人の扱いとを対蹠させることによって始めてみえてくる作者の企圖を汲み取らない限り、この作品の本格ミステリとしての一番の魅力は見えてこないと思います。
一応、メモ代わりにポイントとなるところを箇条書きにしておくと、
A. 作者はどのような技法によって原典を改編してみせたのか。「むかしむかし……」から始まる「原典」における語り手の不在。共同体の外部からやってくる探偵とワトソン。ワトソンを語り手とした「事件」の物語。
B. 「原典」であるお伽噺の外側に「枠」を凝らした構造。その「枠」によって、「原典」のお伽噺的事象はどのように變化したのか。「豆の木」「雌鳥」「自動演奏のハープ」という三つの事象が、本格ミステリの構造の中で「謎」として提示される。
C. 「豆の木」「雌鳥」「自動演奏のハープ」という三つの「謎」の作用の相違。「事件」の中心に位置する謎、「枠」を意識した刹那に立ち現れる「原典」と本作との「差異」、メタ・ミステリとしての「原典」の改編。
D. 謎―解明という本格ミステリとしての物語を通過した後、「原典」はいかに改編されたのか。最終頁における探偵の提案、「原典」、そしてワトソン役が「再編」という言葉で示してみせた、これから書かれるべき「ジャックと豆の木」の物語、――これらの差異。特に巨人の扱いについて。
こうした基本的なところが理解出來て始めて、芦辺氏が言われているような「その作品が探偵小説であること自体が探偵小説としての仕掛けにつながっている作品」としての「讀み」を本作に行うことも出來る譯だし、そこまで踏み込んだ「讀み」を行わずに本作を評價してしまうのは如何なものか、と考えてしまう譯です。
ちなみに作者は香港人で、自分は香港のミステリ事情にはあまり詳しくないのですけど、「我相信總有一天中文推理小説也能登上世界級水平」と熱く語る作者に敬意を表し、敢えてここでは台湾ミステリと言わずに、現代の中文ミステリとして本作は評價されてしかるべき作品である、と纏めておきたいと思います。