當時、疊みかけるようにリリースされていた新本格の作品の中では、どうにも自分は我孫子氏の作品とはあまり相性が良くなかったようでありまして、本作など今に至るまで一度讀んだきりで、再び手にとってみたことはありませんでした。
思い返すにあまりにベタなコード型本格ものでありながら、卷末に収録されている島田御大の言われる「ユーモア小説の体裁」を取られた風格が當時の自分には氣に入らなかった、というか、理解出來なかったようです。この御大の言われる「ユーモア小説」という點に關してなのですけど、解説では田中啓文氏は本作をギャグ小説とし、「ギャグ小説は、ユーモア小説」とは違うと主張しています。
田中氏の手になるこの解説、我孫子氏の「人柄」も含めて、自分などはその非常にハジけた内容に思わずノけぞってしまったのですけど、實のところ、この田中氏のブッ飛んだ解説を讀むだけでも本作は「買い」じゃないか、なんて感じてしまったものの、このあたりについては後述します。
物語は刑事も含めた三兄弟を探偵側のキャラとして、8の字屋敷で密室や犯人の消失など、カー・リスペクトの不可能犯罪が展開される、――という物語です。
で、解説に田中氏曰く、御大が「本格ミステリー宣言」で、
この物語は一応ユーモア小説の体裁をとっているが、むろん優れた本格物である。
とあるところを、「ミスプリント」だとし、正しくは「この物語は一応本格物の体裁をとってはいるが、むろん優れたユーモア小説である」だと述べています。さらには上にも引用した通りに、「ギャグ小説は、ユーモア小説とは違う」として、ギャグ小説である本作においては、
嘘だと思うなら、本作から、……(略)……、本筋とは関係ないベタな小ギャグの部分を削除していってみたまえ。――ほとんど何も残らないということがわかるだろう。
と書いているのですけども、本作におけるユーモアに關しては、田中氏のように受け取ることの出來る讀者もいる一方、そもそもこのユーモアが相當にサムい、とマッタク逆の感想を持たれる方もおられることもまた事實でありまして、ここで、新本格の宿敵、新保氏の「世紀末日本推理小説事情」の「新人賞、新書、新本格」の中から我孫子氏の作風に關して述べている箇所を引用すると、
我孫子氏がユーモア・ミステリを標榜する志はよしとするも、若い作家には最も困難なジャンルだろう。率直に言って氏のわざとらしいユーモアは少しもおかしくないし、コミック調にしたためにトリック自体の滑稽さに書き手自身が麻痺しかねない危険性もある。秀れた推理小説には(というよりすべての娯楽小説には)必ずユーモアがなければならないと私は考えるが、その中でことさらユーモアを売り物にするには、それが自然に滲み出る年齡的な成熟が特に必要なのではないか。
と、上から目線で、若僧がユーモア調の小説を書いてもサムいだけだよ、とでも言わんがごとき攻撃的な口調がアレながら、個人的には本作におけるユーモアは、新保氏が批判しているような「わざとらし」さこそがキモであるように感じられるのですが如何でしょう。
正直に告白すると、自分も本作の「ユーモア」「ギャグ」にはマッタク笑えなかったクチなのですけども、田中氏が解説の中で引用されているような「木下刑事の怪我の度合いがどんどん重くなる、という秀逸な繰り返しネタ」をはじめとして、冒頭の「警部補! コロシです!」というベタベタに過ぎる電話でのやりとりなど、これらは言うなれば定番ともいえるネタであって、これらの分かりやすいギャグ・シーンの連打も、新保氏が言われているような「トリック自体の滑稽さ」に物語的な現實味を与えるための戰略と見れば、これは霞ミステリを典型とした「バカミス」を構築するためのオーソドックスな技巧と評價することも出來るのではないでしょうか。
現代のバカミスという視點から見ると、本作における上滑り氣味の「ユーモア」「ギャグ」を本格としての結構から乖離した餘剩として見るよりも、それらもまた本格ミステリを構築するための「必然」であるとすることも可能であろうし、個人的には天の邪鬼に、田中氏が言われている「本筋とは関係ないベタな小ギャグの部分を削除して」いくと、「ほとんど何も残らない」と言われている、その「何も残らない」と言われている部分から、本作における本格ミステリとしての中心軸は如何なるものなのか、というあたりを色々と探りたくなってしまいます。
再讀してみて分かったのは、本作の場合、「探偵」の存在の必然が本格ミステリとして原動力になっているところが秀逸で、このあたりは、犯人の独白らしき「プロローグ」の主張にも明らかです。トンデモなトリックを思いついた犯人がこれから行うべき完全犯罪について思いを馳せるとともに、
……惜しむらくは、その作品を鑑賞し、批評してくれる観客――名探偵の不在だ。
と呟くこの「嘆き」こそが、後半における不可能犯罪講義の後に大開陳される眞相開示とその仕掛けへの大きな伏線となっているところもいい。
「名探偵」の不在を前提としたプロローグが、最後の推理によってまったく違った構図を見せるところから犯人の狂氣を明らかにしていくところは本作一番の見せ場だと思うのですけど、新保氏が批判しているような「滑稽」なトリックを支えるために鏤めた「ギャグ」「ユーモア」が、逆に犯人の狂氣に踏み込んでいくことを拒んでしまっているところが今讀みかえすと惜しい、というか、――これをもってして「人間が描けていない」という主張も個人的には理解出來るとはいえ、寧ろここでは、本作における「ギャグ」「ユーモア」を「バカミス」的トリックに現實味を与える為の戰略と、仕掛けによって人間を描くという本格ミステリ的な技巧の效果との相殺、という點について色々と考えてみたいところです。
また、「ギャグ」「ユーモア」を本格ミステリの仕掛けとして用いるという點に關して言えば、上に述べたような霞ミステリの定番ともいえる技法のほか、脱力ギャグを伏線や煙幕の機能として大活用してしまう東川ミステリなどと比較しながら、新本格以降、「ユーモア」「ギャグ」が本格ミステリの技巧のひとつとして用いられるにいたった変遷を探ってみるというのも一興でしょう。