風太郎とはいっても「わが推理小説零年」とは異なり、ミステリとはあまり關連のない内容ゆえ購入しながらも讀むのを後回しにしていたのですけど、そんなことを激しく後悔してしまうほどに素晴らしい内容でした。これはもう、ひとえに編輯を行った日下氏の考え拔かれた構成によるところが大きいと思います。
内容は大きく三部に分かれていて、幼少時から学生時代の樣々な逸話を綴った第一部「私はこうして生まれた」、太平洋戦争をさまざまな視点から論じてみせる第二部「太平洋戦争私観」、最後に「同日同刻」の番外編で沖繩編ともいうべき「ドキュメント・一九四五年五月」を中心にした第三部「ドキュメント」からなっています。
第一部「私はこうして生まれた」では、惡ガキ時代のやりすぎぶりが風太郎フウのユーモアも交えて描かれていくなか、母の死と迫りくる暗い戦争の影が綴られているところに注目でしょう。特に母の死が「精神の酸欠状態」を引き起こした所以と、先生の監視をくぐり拔けて夜中に映畫館へと繰り出す逸話は何度も繰り返し描かれているのですけど、読みすすめていくにつれ、ユーモラスに綴られていた映畫館の逸話の陰にも館の息子の死に象徴されるように、戦争が暗い影を落としているところが明からにされていきます。
そんな中、例えば空襲が起これば試驗が中止になればいい、――みたいな「僕の危機一髮物語」で語られるいかにも風太郎らしい笑いは、自身の逸話に寄り添うかたちで描かれている戦争の暗さを、時にははっきりとした陰影を際だたせるものとなり、またときにはそんな暗さに対するさりげない救いにもなっているあたりは見事です。
第一部で同じエピソードが趣向を変えて語られていくなか、頁をすすめていくにつれ次第に戦争の影が色濃くなっていくという構成が見事で、風太郎の周圍のエピソードから間接的に描かれていた戦争は、第二部「太平洋戦争私観」から昭和を前後期に分けつつ日本人の特質を論じるかたちで描かれていきます。
第二部はエッセイでありながら論考の趣が強く、「太平洋戦争私観戦線「戦中派」の本音とたてまえ」では、昭和を前後期に分ける例の考察のほか、「黒船によって眼をひらかせられた日本人がはじめて見た歐米列強の生き方に対する衝撃」から太平洋戦争での日本人の振る舞いを論じているところは興味深く、ことに「例のクジラ騒ぎ」について述べているところはタイムリーというか何というか(爆)。
この第二部で太平洋戦争の内實を論じたあとに續く第三部は、第一部で描かれた作者の回想と對蹠するかたちで、ヒトラーの死から始まる一九四五年五月からの出來事が沖繩を中心に淡々と描かれていきます。
ここでは当時の文獻からの引用も含めて、ゲッペルズも沖繩の一市民もすべてひとしく、樣々な人々に降りかかった出來事が淡々と点描されていくのですけど、この戦争の世界圖を俯瞰しながら、第二部で語られていたような作者の主張を殊更にまじえることもなく、ただひたすら淡々、肅々と書きつづっていくところはもう壓卷。
文章の端々からは逆に作者の戦争に対する思いがビンビンに感じられるところも印象的で、また第二部を通過した後だからこそ、ここで点描される人々の描写の繰り返しからたちのぼってくる作者の主張が胸に迫ります。また第二部を折り返しとして、第一部の風太郎自身の回顧と第三部の戦争を俯瞰した絵図を對蹠させるという構成が劇的な効果を上げているところもまた見事。
ちなみに第三部は「米軍公刊戰史」の引用によって痛切な餘韻を殘すなか、さりげなく風太郎自身のエピソードを挿入してあるという茶目っ氣にチとニンマリしてしまいました。
ミステリとは完全に離れた内容ながら、個人的には三部に分けた構成の妙を大いに堪能した次第です。自分のように風太郎ミステリにしか關心のない讀者でも、一級品の文章と日下氏の丁寧な編輯による内容はきっと愉しめるに違いなく、「わが推理小説零年」とともに讀む價値は十分にアリ、ではないでしょうか。