おそらく傑作、なんだと思います。「おそらく」なんて言葉をつけてしまったのには勿論理由がありまして、それについては以下にジックリと述べたいと思います。
物語は、凄腕の手品師が奇天烈なマジックを披露、見事な脱出劇で選ばれた観客のド胆を拔かせてやろうとしていた最中に何やら不測の事態が發生、マジシャンは棺桶の中で胸に杭を打たれた状態で發見される。これが棺桶、部屋、逃走経路を含めた三重の密室であったとこから、犯人はいかにしてこの犯行を爲し遂げたのか、というところを探偵と警察が推理していた矢先にまたまた癡呆老人が密室の中で屍体となって發見されるという大事件に。
果たしてこれは自殺なのか他殺なのかと議論してひとまずある結論に到ったところでまたまた密室が、……というかんじでもう、畳みかけるように密室殺人、推理、そしてまたまた密室殺人という強迫的なリフレインが行われる構成に、まず密室が三度のメシよりも大好きな本格理解者は大滿足。
密室の大盤振る舞いの中ではやはり最初の三重密室がもっとも秀逸で、一、二、三の密室の特質を推理していく一方、その眞相が最後には掟破りともいえる或るものの存在を仄めかすところなどから、本格理解者がこだわりにこだわりまくるフェアプレイというところを挑発してみせる風格も素晴らしい。
この掟破りを躊躇いもなく押し通してみせることによって、この三重密室のほか、後半の推理でついに明らかにされる犯人像にも絡めて本作にある種の凄みを与えているところは勿論なのですけど、百人の「魔術王」が束になっても敵わないと思われる天才犯罪者と探偵との、先手を讀み尽くして行われる操りと怒濤のミスディレクション、さらにはネチっこい推理の三つ巴がこれでもかという具合に繰り返される展開が堪りません。
しかしこの操りとミスディレクション、偽の物證といったネタを前面に押し出した犯罪構図はその一方で深刻な問題を提起しておりまして、このあたりは探偵の苦悩の台詞にも十分に感じられます。以下引用すると例えば、
「僕の推理は、犯人の掌の上で展開しているだけなのではないでしょうか」
「解きなさい、と差し出されているかのようです。……(略)ああ、混乱します。どれが手掛かりで、どれが罠なのか」
「この犯人は、囮のタネを見え隱れさせている一流のマジシャンだ、と感じつつあるというの?」
「超一流かもしれない。とてつもない知力を感じる。そう思わないかい?……(略)犯人はここに謎の大伽藍を作りあげている。そんな人間が、スライド錠のトリックをこの程度で投げ出していくとは考えにくい」
……(略)
「美希風。あなたの考えだと、こういうことになるんじゃない。この犯人は、もう少し手を加えれば完璧にもなるこの密室トリックを、捨て石としてしか扱っていない、と」
「そうなるね」
「物理的なトリックを見破った瞬間、心理的なトリックが始まっているような気がするのですよ。物理トリックが心理トリックに移行するのです。……(略)こちらに解かせるための謎すら仕掛けられていたのですから……(略)」
こうして偽の証拠を鏤めては、「どれが手掛かりで、どれが罠なのか」を混乱させるとあれば、讀者としては探偵が「どれが手掛かりで、どれが罠なのか」の仕分けをどのようにして行うのかに注目してしまうのは當然でしょう。ちなみにこのネタは法月氏が「初期クイーン論」などで提示していた証拠の真偽性のテーマにも繋がっていくような気がするので、以下これを「初期クイーン論」の中から引用しておくと、
……クイーンの文脈においては、証拠の真偽性の判断が階梯化の契機になっている。しかし、『ギリシャ棺の謎』のようなメタ犯人――ここではさしあたって、偽の犯人を指名する偽の証拠を造り出す犯人、と定義しておく――の出現は、「本格推理小説」のスタティックな構造をあやうくする者である。メタ犯人による証拠の偽造を容認するなら、メタ犯人を指名するメタ証拠を偽造するメタ・メタ犯人が事件の背後に存在する可能性も否定できなくなる。……(略)……こうしたメタレベルの無限階梯化を切断するためには、別の証拠ないし推論が必要だが、その証拠ないし推論の真偽を同じ系のなかで判断することはできない。……
では本作ではこのあたりをどのように超克しているのか、という點についてなのですけど、中盤ではその犯人が差し出したと思しき偽の証拠について、探偵は「そこに妙な感触があるんですよ。僕は、自分でこのトリックを解明したとは、どうしても思えないんです。手応えが違う」と答えています。勿論、物語の外にいる讀者はシリーズものの探偵を認めているからこそ、本作の探偵の「直感」を信頼してこの後も物語を讀み進めていくことが出來る譯ですが、それでも上で法月氏が指摘しているような問題はずっと頭に中に蟠ったまま、またマタ第二、第三の屍体が發見されたりするものですから大變ですよ。
實は正直に告白すると本作、最後まで讀了するのにかなり辛く、その理由というのも、上に挙げたところにも大きく關わってくるのですけど、まずあらすじを纏めた通りに、本作は、曰くありげな一族のトリック屋敷を中心にマジックのネタを大量投入して密室殺人が畳みかけるように發生するという、本格理解者が随喜の涙を流して狂喜する密室の大盤振る舞いをフィーチャーしたコード型本格の外觀を持っています。つまり、見てくれは「後ろ向き」の本格ミステリらしい雰圍氣をムンムンに振りまいている譯です。
しかしその一方、上にも挙げたような証拠の真偽性ネタを交えた問題定義を行っているところから「前向き」の本格ミステリとして讀まれることをも期待されている。そんな譯で、自分は「後ろ向き」の本格としての「讀み」と、先進性を備えた「前向き」の本格としての「讀み」との板挾みにあってしまい、どうにも本作では、物語にのめり込んで讀むことが出來なかった次第です。
これがプロの批評家であったら、コード型本格としての外觀に着目した「後ろ向き」本格としての「讀み」と「前向き」の本格ミステリとしての「讀み」という、二つの「讀み」を同時に並行して行うことも可能な譯ですけども、いかんせん、このあたりの頭のデキがプロの批評家とは根本的に異なるボンクラのプチブロガーとしてはかなり辛く、本格理解「派系」作家の首領の作品などとは違って、畳みかけるように發生する不可解な密室事件にも眞底乘り切れなかったところは殘念至極。もっともこれはあくまで、自分がボンクラゆえのことでありますから、鋭い「讀み」の力を持った方であれば、本作は後ろ向き、前向きと樣々な角度からその趣向を愉しむことが出來る作品だと思います。
さらに言うと、自分としては探偵がこの偽の証拠の、合わせ鏡のごとき無間地獄の罠からいかにして脱出するのかに興味津々だった譯ですけど、最終的に読者の前に明かされる眞相に關しては、うーん……何とも微妙な讀後感、でしょうか。勿論この犯人像とある意味、「首無」にも通じる仕込み、さらには第一の事件ともいえる三重密室の趣向にも通じる掟破りによってその犯人像が明らかにされるところは素晴らしく、感動出來たのですけど、これで証拠の真偽性ネタに探偵がオトシマをつけたとはどうしても感じられず、このあたりはちょっとアレ。
また、柄刀氏というと、島田御大の提唱されている二十一世紀本格にも通じる奇想と異樣な謎がまず魅力で、その卓越したロジックは勿論のこと、個人的にはまず定番ネタとは大きく異なる新しい謎をつくりあげることの出來る作家として評価していたのですけど、飜って本作では、本格ミステリでは定番の密室、密室また密室と、新しい魅力的な謎の創造という點では大きく後退しているように思えるのも、自信を持って傑作と言い切れないところでありまして。
いずれにしろ密室は樣々なトリックが明かされることによって解かれる譯だし、そこで提示される回答というのは所詮、マジックネタにも通じるトリックのハウツーに過ぎないような氣がしてしまうし、さらにいえば、その解明されるトリックも結局は狡猾な犯人の手になるニセモノだという事が續けば、密室のトリックが明らかにされる時のカタルシスも減退してしまうような氣がしてしまうのですけど、……まア、このあたりはあくまで、自分がコード型本格よりは、幻想ミステリを愛し、ミステリにはまずその幻想的な謎に魅力を感じる本讀みであることと、また密室トリックにそれほど興味がないという、あくまで個人の趣味嗜好によるものでありますから、例えば、「問題編の九割がたは文章も含めてすべて同じ、しかし密室トリックは全て違う」みたいな推理パズルを毎日讀んでも沒問題という密室マニアの本格理解者であれば、まさに本作は大傑作ともなりえる一册なのだと思います。
ただひとつ、非常に興味深かったのは、偽の証拠ネタも絡めて、本作では過剰なほどに推理とロジックにこだわりまくっているところでありまして、今回の本格ミステリ大賞の選評で歌野氏が最近の本格ミステリは「作品の屋台骨であるべき推理部分が脆弱」と言っていた危惧をふッ飛ばすかのごとき風格であること、また本作と同様、ロジックにかなりのこだわりが感じられる「首無」や「天帝」の二册がリリースされたという偶然から、今年の本格ミステリの傾向を見ることが出來るような氣もします。ただ、またまたアレなんですけど、ロジックの美しさという点では、「首無」の方が上だと個人的には感じてしまうのですけど、まあこれもあくまで好みの問題、ということで(爆)。
探偵の若かりし頃の事件であるということ、また証拠の真偽性ネタも交えて探偵の推理が迷いを見せるところなどから、柄刀版「ギリシャ棺の謎」というふうにも感じられる本作、密室が三度のメシよりも大好きな本格理解者には當に待ちに待った長編大作といえるでしょうし、本格理解「派系」作家の首領がもう讀まずして傑作と言い切ってしまうのも頷けるものの、個人的には、上に挙げた証拠の真偽性のテーマと証拠の真偽性に絡めた探偵論や、本作において構築される推理を主題に、是非とも法月氏と蔓葉氏に詳細な解説とプロとしての「讀み」を期待してしまうのでありました。
おかげさまで、今後よほどの高評価が出ないかぎり、この分厚い作品を読まないで済みます(笑)。
ご意見で私が引っ掛かったのは、「初期クイーン問題」に係わることが、果たして「前向き」なのか、ということです。実際、法月綸太郎の「初期クイーン論」は、クイーンの「権威」を強化するために書かれた、極めて「保守的」な論文です。当たり前の話ですが、「新しさ」とは「旧来の常識(的肯定性)を否定する」ところに出てくるもので、「旧来の常識を補強する」ところからは出てきません。だから「初期クイーン問題」をいくら弄くっても、「本格ミステリという形式」に対する「本質的な懐疑」がないかぎり、それは何の「新しさ」も生まないし、「新しさ」とは関係のない行為にしかならないのではないかと思います。
「人倫」を語る者が必ずしも倫理的ではなく、「論理」を語る者が必ずしも論理的ではないという事実。また、山沢晴雄のゴリゴリの本格が、なぜ本格の限界を幻視させるのか、といったことも併せて考えるべきなのではないでしょうか。
そんなわけで、私の感じでは、むしろ柄刀一は「保守化」ということで、一貫しているんじゃないかと思います。もちろん「保守化」がいけないということではありません。ただ、私には、あまり興味がないということです。