先日挙げた「『アリス・ミラー城』殺人事件」について、藤岡先生からコメントをいただいたのですけど、それについて書いていたら長くなってしまったので、一エントリを起こすことにしました。以下、激しくネタバレしているので、本作を未讀の方は讀み進めないように御願い致します。
「ドラキュラ城」という城に探偵たちが招待され、次々と血を吸われて殺されていき、ラスト1ページにアルカード伯爵が登場したとき、書き方によっては傑作ホラー、傑作スプラッタにはなるかも知れないけど、到底、「驚天動地の意外な犯人」とはなり得ないと思うんです。
という先生の指摘はその通りで、本作がこの譬えでいうと、「アリス・ミラー城」に招待された探偵たちがジャカスカ殺されていき「ラスト1ページ」でエシーラ(ecila)とかいう少女が登場して犯人は彼女でしたア、では本格ミステリとしては全然駄目なのはいうまでもありません。
本作が秀逸なのは、犯人の名前は「ラスト1ページ」で明かされるとはいえ、犯人が「ラスト1ページ」になってからようやく「登場」するのではなく、最初から姿を見せているにも關わらず、讀者にはそれが見えていない(気がつかない)ようにしている記述の技巧にある、――ということは既に本作を讀了された方にはお分かりでしょう。
では作者の北山氏はどのような記述の技法を驅使して、讀者から犯人がハッキリと姿を見せているにも關わらずそれを気づかせないようにしていたのか、というところに着目しつつ、自分のボンクラぶりを以下に晒してみたいと思います。自分は恐らくかなり綺麗に騙されていると思うので(爆)、長くなりますけどどうか最後までおつき合いください。
ラストのremain1の295頁の、以下の記述にもある通り、
彼女は最初の夜のディナーに着ていたのと同じ服を着ていた。襟元に白いふわふわとしたファーのついているワンピース・ドレス。生地は薄手で、地下の冷たい部屋の中では寒そうに見える。
「最初の夜のディナー」の場面で犯人である「彼女」はシッカリと讀者の前にも姿を見せています。これがremain10の50頁末尾からのシーンなのですけど、この描寫は讀み返してみれば確かに非常に違和感の殘る描き方をしている譯で、52頁冒頭の描寫は、
彼女は肩にかかったブロンドの髪を軽く後ろに払って云った。襟元にふわふわとしたファーのついているワンピース・ドレス。生地は薄手のようだが、多少効き過ぎた暖房のためか寒そうには見えなかった。
とあるものの、この52頁を讀んでいた時には、この「彼女」というのを、自分は「ですネ」という口癖のルディのことかと錯覚してしまった譯です(爆)。勿論これは犯人のことなのですけど、「彼女」という代名詞をここに使うことによって讀者にはアリスの描寫を犯人のものと思わせる技法だったのではないかなア、と思ったのですけど、これはただ單に自分がボンクラゆえに勘違いしていただけですか(爆)。
またこの犯人の服装にも注目するべきで、上にも引用した「彼女」の出で立ちはマンマ自分が頭の中に思い描いている「不思議の国のアリス」のアリスそのもので、これが中盤に登場するゲス野郎の發言において絶妙な効果を上げています。
犯人を目撃した海上がその名前を絶叫するシーンがそれで、これがremain8の136頁なのですけど、ここもまた引用すると、
「どんな影だったんだ?」
「そうだ、思い出してきたぞ。スカートを穿いていたような気がする。暗い中でもわかった。ああ、髮は金色だった。そうか、間違いない。俺様が見たのだアリスだ!
俺が部屋に入ると、やつは暗闇の中に、いや、鏡の中にかき消えてしまった。しかし間違いない、俺様は見たんだ!あいつがじいさんを殺して鏡の中に逃げたんだっ」
ところで、この前のremain9におけるルディの書斎の場面で、「大きなビスク・ドール」が登場するのですけど、ここで海上が見たものというのは、この人形のことだったと自分は錯覚してしまった譯です(爆)。勿論ここで海上が見たのは「犯人」の姿で、彼は「その通りのこと」、つまり犯人を名指して叫んでいたというのはいうまでもありません。
この「大きなビスク・ドール」の描寫を引用すると、
ふわふわとした黄色のエプロン・ドレスを身にまとっており、裾にはレースがついている。瞳は宝石のような青。髮はやや褐色がかった金髪で、肩口に柔らかく落ちていた。その人形は『不思議の国のアリス』に插絵を見せたジョン・テニエルの描くあの七歳の少女にそっくりだった。
犯人である「彼女」がこの人形と同じ恰好をしていたというのが見事な騙しの効果を挙げているのは勿論なのですけど、ここでハッキリと犯人をゲス野郎の口から名指しさせておくという大胆さに自分はスッカリ騙されてしまいました。更にいうと、この作品の作者は物理トリックの名手である北山氏、恐らくここでもこの人形を使っての奇天烈なトリックに違いない、と思ってしまった譯です。
また冒頭から殺人予告として、參集した探偵たちの前におかれたチェス盤もこれまた絶妙な騙しを効かせていて、remain10の21頁では、「白の駒が十個」あった譯ですけど、これは探偵たちに向けた殺人予告であるところがミソ。「クリスティの小説の犯人は十人の中にいた」という先入觀を探偵たちに植えつけるとともに、これが後で顔のない死体が発見された時の仕掛けへと繋がっていく譯です。
十個の駒は招待主とメイドの二人に探偵八人の合計十人、という結論が22頁以降の探偵たちの會話の中でなされます。犯人の「彼女」の姿が見えていなかった自分は、ここでいう八人の中の一人に、唯一の萌えキャラである入瀬を數えてしまっていたのですけど、よく考えれば入瀬というキャラは「探偵」ではありません。
探偵はあくまで无多だけであって、この八人の中に含まれるべき本當の「探偵」こそが犯人である「彼女」な譯で、「探偵」である登場人物たちは当然そのように了解していたのですけど、それにも自分は氣がついていなかったと。
という譯で纏めてみると、自分の敗因は、晩餐會の場面での違和感を疑うことなく、そこで犯人が大胆に姿を見せているのに氣がつかなかったこと(大莫迦)、そしてゲス野郎が名指しをしているにもかかわらず、それが「アリス」ではなく、その前に登場したビスク・ドールだと錯覚してしまったこと、さらにチェスの駒に含まれるべき探偵八人の中に入瀬というキャラを數えてしまい、「探偵」の一人である「彼女」の存在を完全に忘れてしまっていたことの三つ、でしょうか。また本作が物理トリックの大技を得意とする北山氏であったことから、まさかこんな仕掛けがあるとはマッタク予想もしていなかったというのも、勿論あります。
また登場人物たちは何故「彼女」が犯人だと思い至らなかったのか、という點ですけど、確かにこれは大きな違和感を残します。しかしこれについては、彼らはミステリに知悉している「探偵」だったからこそ、殺された人物の中に犯人がいる、というミステリの定番ルールに誤誘導されて、結果的に殺された人物の中から犯人を見つけ出そうとしてしまい、真犯人である「彼女」は容疑者の圈外に逃れてしまったのではないか、と思うのですが如何でしょう。
ここでも上に挙げた通り、例のチェス盤が効果を挙げているのは勿論なのですけど、もうひとつ、探偵の何人かは「彼女」が犯人であると思い至ったのかも、と考えることも可能だと思います。しかし探偵たちが、「彼女」が犯人であると氣がついた描寫は、作者の手によって省かれていたのだ、と。
ここで注目したいのは、本作が多視點で語られているところでありまして、これが冒頭からずっと最後まで无多と入瀬の二人の視點から語られていたら、確かに「彼女」が真犯人である可能性に思い至る描寫がなされていないのはオカシイ、ということになる譯ですけど、多視點で物語が進行する構成ゆえ、作者は意図的に探偵たちの何人かが真犯人に思い至る場面を描かなかったのではないでしょうか。
ゲス野郎の暴走によって中盤、探偵たちが散り散りになってしまうところも含めて、いよいよ「彼女」は容疑者の圈外から逃れることになり、コロシの續發によって探偵たちはミステリの「御約束」である「顔のない死体」とチェス盤によってクリスティの作品を想起し、ついに犯人は絶体に殺された人物の中にいる、と錯覚してしまう。
これがミステリの御約束を知らない一般人だったら、当然「彼女」も怪しい、という風に考えるには違いないのですけど、そこで作者はミステリのルールに呪縛された「探偵」を被害者に配することによって、犯人に誤誘導されてしまう彼らを描き出す。「探偵」が被害者である必然性が本作にはシッカリとあって、このあたりも本格ミステリにおける「探偵」の位置付けにこだわりまくる北山氏の心意氣が感じられます。
……以上、自分のボンクラぶりを晒してみた譯ですけど、犯人が「彼女」であると見拔いた方々はどのあたりで分かったのでしょう。「本格の鬼」であれば、晩餐會に「彼女」がいたことは當然分かっていて、海上が「彼女」の名前を絶叫したところでもう「彼女」が犯人である、と見拔いてしまうべきなのでしょうけど、自分は上にダラダラと書いた通りのボンクラゆえ、勘違いに次ぐ勘違いで見事に北山氏の仕掛けに騙されてしまったという次第です。
[03/10/07: 追記]
北山氏の過去作を讀んでいたことから、物理トリックの大技を凝らした氏の作風が本作の騙しの効果をさらに高めていた點についても言及しておきました。
わたしへの回答のためにわざわざエントリを立てていただいて恐縮です。
この作品のミソは登場人物が全員探偵というところにあるのではと思っています。誰が探偵役なのか最後まで分からないと言うところですね。
そして、わたしにとって不幸なことは、わたしは北山さんの他の作品を読んだことがなかったので「物理的トリック」なんて思いもしなかったことです。当然記述的になにか仕掛けてくるだろうと思って読んでいたので、人形が出てきたときにはニヤニヤと。
なにより、「アリス・ミラー城」というタイトルが、驚きを大分殺いでいると思うのです。
冒頭にわたしの文章を引用していただいていますが、総てはあの一文につきます。
どのような細かい仕掛けがなされていようが、「ドラキュラ城」に招待された探偵たちが皆殺しにされ、犯人はアルカード伯爵となれば、わたしにとっては「まんまやないけ」以外のなにものでもないのです。伯爵はもっと前から登場していたとか、人形に誤認させていたとか、いろいろあっても、とにかく「ドラキュラ城で起きた連続殺人事件の犯人がアルカード伯爵である」という真相には、全く驚けません。
感性の違いなんでしょうか。
最後の一ページは衝撃的でした。それはある意味『火車』に共通するものがありました。
~以下『火車』ネタバレ~
わたしは、犯人が絶対に入れ替わっているのだと思いました。そして、だとしたら、高い評価を受けている作品なのに、なんとイージーなラストなのだろうとも思っていました。
ところが――(佐野洋)
入れ替わってすらいなかった。
これってミステリなの? 以来、宮部作品は読んでおりません。
長々と失礼いたしました。
追記:
すみません、コメントに直接答えていただいているのに気付きませんでした。
>しかし先生はどのあたりでこの仕掛けを見拔いてまったのでしょう?
>やはり136頁の、ゲス野郎が犯人を名指しするところで、でしょうか。
いいえ。全然、見抜いていません。最後まで。でも、その最後に全然驚けなかったということなのです。「この城には本当にドラキュラがいたのであった」という結末に「だから、そういう話なんだろう?」と思っただけのこと。意外性のない真相は、どう巧みに隠されていようが、わたし的には「全く駄目」ということなのです。
藤岡先生、コメントありがとうございます。
成る程。個人的には感性の違いというよりも、本格ミステリの何に驚くのか、或いは本格ミステリに何を求めているのか、という違いであるような氣がします。
本格ミステリにおいて最後に明かされる「眞相」に驚くか、或いはその「仕掛け」に驚くのか。先生が「とにかく「ドラキュラ城で起きた連続殺人事件の犯人がアルカード伯爵である」という真相には、全く驚けません。」と書かれているところが自分には興味深く、この一文を讀む限り、先生は何よりも本格ミステリに「驚愕の眞相」を求めているように思えます。
[03/12/07: 追記
先生の二つ目のコメントを讀み逃していました。「意外性のない真相は、どう巧みに隠されていようが、わたし的には「全く駄目」ということなのです。」ということなので、やはり本作に對する評價が異なるのは、本格ミステリに求めるのは「意外性のある眞相」か「その仕掛けの巧妙さか」という點で、先生と自分の嗜好が違いうところに起因するものと思われます。とりあえず以下はそのセンで話を進めています]
一方、自分は最後に明かされる「眞相」はどうでもよくて、とにかく本格ミステリではその「仕掛け」が素晴らしいものであれば大滿足、というかんじなのです。で、本作の場合、その眞相を知ったあと再び頁を戻ってその伏線に驚き、また關心し、……というところはこのエントリに書いた通りでありまして、それゆえに自分は大變に愉しめた、という次第です。ですから假に本作の眞相がマンマであると感じても、自分は本作をその技巧において評價出來たのではないかな、と。
もう一點、先生のコメントで自分が興味を惹かれたのは、先生が本作をそのマンマの眞相ゆえに「いろいろあっても」この作品をちょっとなア、と感じてしまったというところでありまして、自分が思うに「ドラキュラ城で起きた連続殺人事件の犯人がアルカード伯爵である」というのは、物語におけるひとつの「型」なのではないかと。
で、その「型」の御約束だけをもってして、「伯爵はもっと前から登場していた」のにそれを讀者に氣がつかせない記述の技巧が評價されなくなってしまうのは勿體ないなア、という氣がするのですが如何でしょう。
このあたりは小森氏がいわれるところの「後ろ向き」の本格を評價する時に浮上してくる問題だと感じていまして、例えば首領の「魔術事件」などがその典型なのですけど、連續殺人事件の犯人は明らかにされるものの、結局一番のワルは魔王ラビリンス、という眞相もまた「型」であって、首領の作風に批判的な感想というのは、往々にしてその子供じみた御約束の「型」ゆえにバカバカしい、というようなものに落ちてしまっているような氣がするのです。
後ろ向きの本格というのは、時としてその御約束の「型」を踏襲してこその作風なのに、その「型」ゆえに作品の内部に込められた仕掛けの評價はされないまま無視されてしまう、という現實があるのではないでしょうか、……ってちょっと話を拡げ過ぎかもしれません(爆)。
まあ、結局何がいいたいかというと、その「型」のみをもって愉しめないという感想も勿論受け入れるべきなのでしょうけど、本作の記述の技巧は、それだけをもってして無視してしまうのは非常に、非常に勿體ない、ということであります。また本作の、探偵の特権的地位を解体したところへ仕掛けを凝らし、それを記述の技巧と結びつけているところは大いに評價されるべきだと思うのですが、如何でしょう。
本作の技巧に對する評價と、先生が指摘されている「まんまやないけ」に驚けないという本作の構造は、巽氏が「宿題を取りに行く」で述べていた「小説とは何か、文章とは何か、成熟とは何か」と述べているところや、「探偵を特権化することなく、あらためて推理小説の構造を考え」るというところ、さらには「単なる巧拙のあげつらいでない文体論」にまで話を進めることが出來るような氣が個人的にはしているのですけど、これを書くとまた新たに一エントリたちあげないといけない程に長くなってしまうので(爆)、とりあえずこのへんで。