戀愛が先か、ミステリが先か。
連城氏の作品の中ではミステリらしくない作品の典型として前回は「恋文」を取り上げ、この作品も十分にミステリとして愉しむことが出來る、ということを示してみた譯ですけど、今回も同様の趣向で、大人の男女の騙りがミステリ的な心理劇を展開させる短編がテンコモリの「前夜祭」を取り上げてみたいと思います。
収録作は「美女」に収録された技巧派の傑作にも勝るとも劣らない、女たちの語りが最後に驚きの連結を見せる「それぞれの女が……」、浮気性の父と息子の告白が餘韻のある幕引きを迎える「夢の余白」、子供の見合いをきっかけに二人の母親が因縁の心理戰を演じる「裏葉」。
婚約者がいるのに運命の女と出會ってしまった息子の我が儘に意想外の眞相を凝らした「薄紅の糸」、不倫OLが相手の妻から浮氣をしてくれと依頼されたのをきっかけに女の心のダークネスを炙り出す「黒い月」、浮氣旦那が別れた妻の秘密に唖然とする「普通の女」、過去の浮氣相手の死が男二人の息詰まる心理劇を引き起こす「遠火」、複数の語りと騙りに連城流の超絶アクロバットが展開される「前夜祭」の全八編。
超絶技巧という點ではやはり「それぞれの女が……」を擧げない譯にはいかないのですけど、本作にはド派手なコロシもなければ事件らしい事件も起きません。不倫相手の死を知らされた愛人が本妻の家を訪ねていく場面と、旦那の不倫に困っている妻が母親に悩みを打ち明けるシーンとが、「……」や「――」の簡潔な区切だけで描かれていくという実驗的な構成が素晴らしい。二つのシーンが劇的な連關を見せる描き方にマジックレアリズムのような眩暈を感じてしまうのは自分だけでしょうか。
一讀しただけでは終盤に明らかにされる「それぞれの女」の連關の妙にただただ唖然とするばかりでマッタク理解出來なかったのですけど、再讀してその伏線と描寫の巧みさに感歎することしきり、當に連城氏しか書き得ないような極上のミステリでありましょう。
「薄紅の糸」も、終盤で明かされる意想外の眞相にこれまた呆然としてしまう傑作で、父親の葬式シーンで始まる冒頭からとにかく仕掛けがありまくり。息子には父親が紹介した婚約者がありながら、運命の女性と出會ってしまったものだからさア大變、息子は運命の女性と結婚する、婚約は破棄すると駄々っ子のようにきかないし、父親は父親で尊厳もある。果たして父子の冷戰の果てに明かされる吃驚の眞相は、……という話。
冷靜に登場人物たちの關係を俯瞰すると、かなり強引なお話ながら、それでもこの物語を受け入れてしまえるのはやはり連城氏の語りの巧みさによるところが大きく、父と息子の間の樣々な逸話を絡めて、過去と現在を織り交ぜながら描かれていく登場人物たちの連關が秀逸です。勿論このどんでん返しに繋がる伏線もシッカリと凝らされているところは勿論で、終盤に開陳される驚愕度という點では本作に収録された短編の中ではピカ一でしょう。
後半に驚愕の眞相を明かしてアッといわせる結構は「普通の女」も同樣で、妻に浮氣がバレて離婚することになってしまった旦那が主人公。家を出てしまった妻の現在を詮索するにつれ、次第に彼女の秘密が明らかにされるのですけど、これまた見事な反轉によってタイトルにもなっている「普通の女」の意味が重い意味を持ってくるところも流石です。
「普通の女」の眞相は、男から見ると女のイヤな部分を知ってしまったような居心地の惡さがあるのですけど、「黒い月」も主人公は負け組間近の不倫女ながらその狙いとするところは同樣で、こちらは不倫相手の本妻から、旦那と浮氣をしてもらいたいという奇天烈なお願いをされるという突飛さがいい。このあと妻は死んでしまうのですけど、この妻の死をきっかけに意外な眞相が、……というあたりは御約束。
一方、「顔のない肖像画」のように嘘と騙りを繋ぎ合わせた怒濤のどんでん返しを繰り出す技巧で魅せてくれるのが、表題作の「前夜祭」で、失踪した男の妻や愛人、部下、子供といった人物たちがこの男の過去を語っていくという構成です。
それぞれの人物の印象がすぐに別人物の証言によってひっくり返される趣向が疊み掛けるように展開される後半は凄い、の一言で、最後に到るまで「主人公」たるべき男は各人の記憶の中でのみ語られる構成が、最後の眞相に餘韻を持たせているところも心憎い。
そのほか「恋文」に収録されていた「私の叔父さん」を髣髴とさせる思い出女の美しい回想から、ひとつの大きな嘘によって反轉をみせる「遠火」など、収録作のほとんどが城ミステリの特徴を十分に有した佳作傑作揃いでありまして、自分としては本作も仕掛けを凝らした本格ミステリとして愉しめてしまったのですけど、確かにコロシも密室もアリバイもないという點では、古典を愛し、空前絶後の密室殺人がないものは本格にあらず、なんて考えを讓らない原理主義的マニアの受けはよくないのかもしれません。
しかし古典や後ろ向きの所謂コード型のミステリが、密室や嵐の山荘といったガジェットを取り込んで物語を仕上げているのだとしたら、連城ミステリでは浮氣や嘘、そして電話や離婚屆といったブツがガジェットとして機能している譯で、本作に収録されている短編もよく讀めば初期作品と同樣の仕掛けがシッカリと施されていることに氣がつきます。
例えば「夢の余白」に登場する冒頭の電話のシーンは、變形すれば「夜よ鼠たちのために」に収録されている某短編のアレやアレにもなるし、このあたりの電話というガジェットを凝らした仕掛けは連城ミステリの定番といえるのではないでしょうか。
また「恋文」の冒頭シーンや「黒い月」で明らかにされる無言電話の眞相など、ボンクラの自分でもその類似性には容易に氣がつく譯ですし、コロシやド派手な犯罪がなくなって戀愛小説的な風格にかたちをかえたからといって連城氏がミステリから離れた、なんてことはありえない、ってことは氏の作品を初期作から讀み續けているマニアであれば絶對に分かる筈なんですけど、……ってまたまたこっちの方向に話を持っていってしまうのは、巻末で日下氏が素晴らしい解説を見せてくれているからでありまして、以下冒頭部を引用するとこんなかんじ。
ミステリファンの中には、連城三紀彦は『恋文』で直木賞を受賞して、ミステリから離れていった、と考えている人がいるようだ。また、推理小説が嫌いの人の中には、ミステリ雑誌の出身だからといって、いつまでも連城三紀彦を推理作家あつかいするのは失礼だ、という人もいる。しかし、殘念ながら、これは、どちらも間違いである。連城三紀彦は、ミステリからも離れていないし、ましてや推理作家をやめてしまった訳でもない。
と連城氏の作風が「恋愛小説の手法で書かれた推理小説」から「推理小説の手法で描かれた恋愛小説」へと移行していったとはいえ、「この二つは表裏一体の同じものであるから、いずれにしても、「ミステリーと恋愛小説の結合」させるための試み」であ」ったという指摘は流石です。
仕掛けとその技巧こそが本格ミステリの一番の愉しみどころと信じている自分としては、密室や生首や嵐の山荘という古典的ガジェットこそ姿を見せないものの、上にも述べたような連城ミステリに典型のガジェットを驅使することによって、人間心理の深奥を人工的な結構に描き出す氏の作品もまた、恋愛小説を裝っているとはいえ、それは本格ミステリとしても十二分に愉しめるものなのではないかと思うんですけど、こんな考えはボンクラのキワモノマニアだけの偏向に過ぎないのだとしたら、それはちょっと哀しいなア、と溜息をついてしまうのでありました。
こんばんは。一時期連城さんに熱中した時期があったんですが、今はどれを読んだらいいのかよくわからないんですが、恋愛小説がメインっていうのが頭にあったんで、いろいろ探して読んでみようかな。
おはようございます。確かに戀愛小説なんですけど、仕掛けの凝らした上質のミステリでもある、というのが連城氏で、コロシもド派手な殺人事件も起こらない物語ゆえ、驚天動地の密室殺人とか首のない死体がジャカスカ出て來ないと本格じゃない、みたいな考えからすると確かに愉しめないのかもしれません。
でもこのあたりは本格のミステリの仕掛けの話ではなくて、物語の雰圍氣だと個人的には思っていまして、仕掛けとどんでん返しを愉しみたいというのであれば、「恋文」以降の連城氏の作品もまたオススメです。「美女」とか「紫の傷」とかがこの系統の連城ミステリの短篇集としては極上の仕上がりかと。
そういう作品ばっかり追いかけていた時期から他も読もうと思った時期に花葬シリーズを読んで面白かったですし、技巧行き過ぎの作品は読んだんですが、行き過ぎて混乱してもう一回読もうかなと思うこのごろです。
恋愛小説の衣をかぶったミステリですか・・・、読んでみようかと思います。
本格理解派の人には理解できない面白さってこういう作品にあると思います。
自分も「美女」とか初讀の時はあまりピン、と來なかったので、連城ミステリはやはり再讀するべき作品かな、という気もします。結局本格理解派の方々にとっては雰圍氣というのが重要なのかもしれません。一方、自分はまず仕掛けありきで、それが物語の風格や結構に絡んでいればいうことなしというかんじでしょうか。連城ミステリでは戀愛に絡めた人間心理をも仕掛けに利用してしまうという徹底ぶりに惹かれますね。
一時期は自分も雰囲気とコードによる本格に熱狂していた時期もありますが、このごろ本格理解派系にはついていけないかな。と、仕掛けと伏線とサプライズかなあと思っています。
本格理解「派系」の舘ものとかも別に嫌いという譯ではないんですけど、あの系統のものばっかり毎日讀まされるというのも惡夢ですし(爆)。仕掛けと伏線とサプライズというのは本格理解「派系」の作品に拘泥せずとも堪能することが出來るような氣がしますよねえ。
そうですね。
本格って枠は広いものだと思うのですが、それを本格理解「派系」の人は一つの方向だけで評価してほしいと思っていそうですね。自分が雰囲気を重視するからといってそれこそが正しいそれこそが本格であとは違うと思っていたらそれは理解されませんね。
以前、『誘拐』(高木彬光)のエントリーで、この人が二階堂蘭子に「社会派に逃げた」
言わせたのからこれのどこが社会派に逃げているんだろうという疑問で少し熱く書いてしまいましたが、本格とは雰囲気だけではないとこのごろ思っているので連城氏など明確な事件が起こらなくても伏線とアクロバットとかがあれば本格ですし、現実的でありながらそれでいてイリュージョンを出すのも本格だと思います。
芦辺拓さんはもしかしたら中期以降の高木彬光の後継者かなあと少し思っています。
・・・すいません。なんか変なことを書いてしまって・・・。では失礼します。
何か社会派と本格は對立するもの、という思いがそもそもの間違いじゃないかなア、なんて高木彬光氏は勿論のこと、土屋ミステリや島田御大のミステリなどを讀んでいると感じます。島田御大のいわれている「清張呪縛」は松本清張の作風とコード型本格の風格との對立と考えれば理解出來なくもないのですけど、社会派と本格が反目するのはちょっと違うのでは、なんて考えたりしてます。
まあ、そういう對立構図をブチげることによって本格理解派の中から傑作が生まれるのであれば全然問題はないのですけどね(爆)。
芦辺氏は中期以降の高木彬光の要素や島田御大フウの風格あり、メタ指向を極めた實験的な作風もありと多彩なところがツボで、自分も大注目している作家の一人です。本格理解派とは距離をとっての活躍を期待したいと思います。
そうですね。一時期は自分も社会派とは現実的すぎて面白くないものなんだろうなという思いでしたし、本格=非現実っていうのを思っていましたが、そういう一視点的ではみれませんね。
背景に館があろうと企業があろうとミステリとしての仕掛けとか伏線があれば本格であり、ガシェットだけで本格だと断定するのは本格理解派的視点ですね。
現実のイリュージョンとは清張に呪縛されていても仕掛けとか伏線で世界をひっくり返すことで本格に反転させることかなあと。
対立だけではよくないかもしれませんね。融合することで世界観が広がると思いますし、本格理解派とはその視点をもたず、ひたすら自分が好きな背景があれば本格と断定する、社会派的が出てきたら社会派に逃げたと思う単一視点者ということなんでしょうね。
芦辺さんは、館とかそういうものより現実に即しながらメタ的にいったり乱歩へいったりという作家で、なかなか自分も好きですね。視点が広いかなあと思います。
少し官僚とかそういうのがうーんと思うときもありますが、そうしたことも受け入れればなかなかいい作家だと思います。
「融合することで世界観が広がる」とは當にその通りで、本格ミステリも小説であり、小説が多樣な背景や形態を許容する表現方法であるとすれば、やはり本格ミステリにも樣々な風格があっていいと思うんですよね。
本格理解派がガジェットの使用に無自覚なのが個人的には氣になっていて、彼らがトリックという時、それって「密室トリック」とか「アリバイトリック」とかという言葉に明確なように、一つにコロシに仕掛けたトリック、みたいな印象が強くてちょっとアレです。
自分は意識して「トリック」という言葉を極力使わないようにしていて、そのかわりに「仕掛け」という言葉を頻繁に用いているのですけど、何だか「トリック」というと、「密室トリック」とか「アリバイトリック」みたいに、一つの事件に對しての仕掛けみたいな印象があって嫌いなんですよね。
ミステリの仕掛けには、眞相の隱蔽と開示に絡めた伏線や讀者から謎の實相を隠し通す為のずらしの技法等等、ミステリも小説である以上、そこには確とした小説的技巧が不可欠で、特に叙述や倒叙も含めた現代ミステリでは、このあたりの複合技が洗練されていないと現代では本格ミステリとしても傑作とはなりえないのではないかなア、というのが最近自分が考えているところでありまして。
北山氏の何処が凄いかというと、個人的にはその物理トリックのド派手さよりも、ガジェットそのものに非常に自覺的なところや、上に述べた技法を本格ミステリという枠の中で突き詰めていこうとする、その志にあるような氣がします。一方、連城氏は恋愛小説の枠組みの中でこれらの技法を突き詰めていっていると見ることも出來る譯で、作風は大きく異なるとはいえ、自分が連城氏と北山氏の作品を同じように愉しんでしまえるのはそんなところに理由があるのかもしれません。
本格理解者の作品はこのあたりが薄っぺらいというか、そんな印象を持ってしまいます。もっとも、薄いとはいえ、個人的にはそのチープな雰圍氣も含めて愉しんでいますけど、
これが北山氏や連城氏の作品を讀むときの評價軸とは異なることはいうまでもありませんか(爆)。
>> 少し官僚とかそういうのがうーんと思うときもありますが、
このあたりは島田御大にも通じるのがあったりして(爆)。
そうですね~。小説である以上は背景とかも深みがあったらいいですし、それが本格の場合書割ぽい感じの人もいますが、そういう感じしかまだかけない人はそういうのを突き詰めることをしたら失敗すると思うので自分の考えた仕掛けで勝負してそれで表現する人もいますし、小説という媒体じたいをつかって事件から物語からをすべてつかってサプライズ効果をもたらす・・・。それも本格ですね。そういうのが新本格以降はあると思います。
ただ、事件を並べてばったばった殺してそこに仕掛けをする。それも面白いですが、それだけをずっと続けていても本格って広がりませんよね。ガシェットつかえば本格で、それを使っていれば本格なんだと思いこんでいるんじゃあないですかね・・・。本格理解派の人は・・・。それだけならそういう本格はそのうち袋こうじにいってしまうと思うんですよね。
世界観から念入りに作ってそこの仕掛けから物語を作るためには小説ということを最大限利用しないと無理ですし、そこに気がむかず、ただ、ガシェットガシェットと喜んでいれば本格ならそれ以上は進化はしないですね。本格は。それでもいいというかそういう作品も必要ですが、それだけだと本格って生き残る道はないですね。
北山さんについては自分はまだどこがすごいのかわからないというか混乱したりすることもあります。ガシェットと叙述でラストに世界が崩壊するようなものを提示するのはすごいなあというか・・・気がしているんですよね。
連城さんはまだあんまり読んでいないのでなんともいえないです。
先人が作ったものをただ消費しているっていう気がする作品がありますね。それだけだったらこの先は本格にないでしょうね。本格理解派『首領』は過去の様式美=本格で、それ以外を見ようとしないというか見ても理解できないのかもしれませんね。ガシェットをつかわず本格ミステリしている作品もあると思うんですがね。
自分も本格理解派系の『首領』のSFミステリ作品は秀作だと思っているんですが、なんか世界観がどっかからの借り物に見えたんですよね。それはそれで面白かったですが・・・。
何だか公開往復書簡みたいになってきてますけど(爆)、まア、コメント覧なんて誰も讀んでないと思うので、気儘に續けてみます。
首領のSFものも一作目に關しては、コロシのトリックも魅力的ですし自分は評價もしているのですけど、脱力のチープ感はいかんともしがたく、このあたりで評價が分かれてしまうかもしれません。
恐らくコンセプトとしては、乱歩リスペクトで蘭子シリーズを作り上げたように、まずアメコミとかペリー・ローダンとかキャプテンフューチャーとか、……まあ、自分はあのへんのSFに明るくないのでアレなんですけど(爆)、おそらくはそういう過去作へのリスペクトがあって、自分もあんな小説を書いてみたい、という氣持がまずあったのではないかと。
ただ、独自の物語世界を作りあげていくという點に關してはあまりうまくない、というのが首領のアレなところで、蘭子ものが時に苦笑を誘うのも、ギガンテスシリーズがアレなのも、その理由は同じのような氣がします。
首領の場合、寧ろ、過去作の物語世界をそのまま持ってきた方が成功するのは「カーの復讐」で分かっているので、個人的にはああいうパスティーシュを中心に仕事をした方がいいのでは、……なんて思ったりするのですけど、それだけだとプロとしてはやはりチと辛い、のかもしれません。
芦辺氏の森江探偵シリーズなんて、過去の冒険活劇も交えた探偵小説へのリスペクトがありながら、十二分に個性が感じられる譯で、プロ作家だったら古典へのリスペクトを保ちつつ自分の風格をもった世界観を作り上げることなど、そう難しいことでもないような氣がするのですけどねえ。
そうですね・・・。ミステリとしてはなかなかいいかもしれないとは思うんですが、自分の好きな世界を出しているのはいいんですが、そうですね。チープなんですよね。
そうですね、自分の好きな世界があり、それをもとにトリックとか事件とか思いつくとは思うんですが、それを提示するちからが少ないから脱力するんですよね。登場人物にしても言葉にしても・・・。
そうですね。結局小説がうまくないというかそういう物語への入り込ませる力がないんでしょうか・・・。そして誤字脱字ですかね・・・。そして微妙なセンス・・・。
そうですね。カーのパスティーシュにしても、『カーの復讐』にしてもそうですね。
ただ、犯人のわかりやすすぎるというかそれはまあ・・・。蘭子シリーズなんて明智小悟郎がいる世界でやったらそれはそれで成功したかも・・・。
そうですね、『怪人対名探偵』も乱歩的でありながら芦辺拓としかいえない作品ですね。
『グランギニョール城』もなかなかですね。そうですね。芦辺さんは物語作家としても本格作家として違った感じでいいですね。