創元推理文庫から復刊されたとあって、ここ最近取り上げていた泡坂氏の短編集の中でも、非常にミステリ小説らしい短編を揃えた一册に仕上がっています。
収録作は女友達の失戀話に素晴らしいホームズぶりを発揮する「赤の追想」、美術品の收集家宅で發生したコロシと盗難事件にだまし繪を絡めた鮮やかなどんでん返しが光る「椛山訪雪図」、花見客で賑わう公園で發生したバラバラ事件から不穏な出來事の出來を推理する手法が秀逸な「紳士の園」。
異國に嫁いだ女性との手紙のやりとりがトンデモない事態を明らかにする「閏の花嫁」、日常風景の中の些細なコロシが思わぬ眞相へと轉じる「煙の殺意」、インチキ山伏を暴き立てるお話かと思いきや、高僧の推理が明らかにした思わぬ犯罪とは、「狐の面」。
解剖醫の奥樣との情事がコロシへと繋がる倒叙ものから一轉、恐怖小説めいたオチにゾッとする「歯と胴」、開橋式の日に發生した昔コロシの再現に超絶論理が炸裂する「開橋式次第」の全八編。
傑作となるとやはりそのトリックの鮮やかさという點でまずイチオシしたいのが「椛山訪雪図」で、蒐集家宅でのコロシとともに現場から盜まれていたブツも絡めて物語は普通に進むものの、冒頭で語られていた騙し繪の趣向がコロシの眞相を明らかにする推理の明快さが素晴らしい。
「椛山訪雪図」が騙し繪のトリックの趣向が光る、いかにもミステリらしい作品だとしたら、その逆説と超絶論理で魅せてくれるのが「煙の殺意」と「開橋式次第」で、いずにも「DL2号事件」の系統ともいえる、犯人の異樣な行動の眞相に唖然としてしまう趣向が秀逸です。
「煙の殺意」は、いかにも普通っぽいコロシとデパートの火災事件が併行して描かれていくその構成にも注目で、警察の視點から件のコロシでアッサリと自首してきた男の犯行状況が語られていくものの、どうにも男の証言には不審なところもあったりして納得がいかない。やがて男の犯行には奇天烈な眞相が隠されていて、というところから、デパート火災との思わぬ連關が明らかにされる後半の展開が洒落ています。
「開橋式次第」は開橋式の日に、昔のバラバラ死体とまったく同じ状況で死体が發見されるという奇天烈さから、犯人の思わぬ行動の裏にあった動機が明かされると趣向ながら、このネタのヒントが作中のちょっとしたエピソードに伏線として鏤められていたところが後半の推理によって開示されるところが泡坂ミステリ。
「紳士の園」も、犯罪紳士が公園で白鳥を捕まえて食べてしまうなんていうハジけた行動がユーモアっぽく語られていくものの、花見客で賑わう普通の公園の情景が、犯罪紳士の推理によって一轉する變わり身の妙が素晴らしい一編です。
斷片をそれぞれに繋ぎあわせてホームズ風の推理が開陳されるという構成が光るのは「赤の追想」も同樣で、冴えない男が女の樣子を見て彼女の失戀を推理していくところから、ふった男の奇妙な行動の眞意が解き明かされていく論理の飛躍が鮮やかな逸品でしょう。
「狐の面」もその筋運びの見事さに關心した一編で、村にやってきたインチキ山伏が大道藝によって人心を惹きつけるや憑き物落としを敢行、しかしそのインチキぶりをスッカリ見破っていた高僧が山伏のトリックを見破るお話かと思いきや、物語は意想外にある犯罪を暴きたて、……という話。
インチキ山伏の逸話によって話を進めながら、本當の犯罪を讀者の目から隠してしまうずらしの技法が光る作品で、「赤の追想」や「紳士の園」が斷片的な出來事の背後で「何が起こっているのか」を謎に据えた物語だとしたら、「狐の面」や「煙の殺意」は、大きな犯罪を目の前に掲げて讀者の目線を逸らしつつ最後に「何が起こっているのか」を明らかにする技法がキモで、最近の個人的な好みは後者の系統、でしょうか。
「煙の殺意」は、犯人も既に自首したという單純なコロシを軸にして話を進めていくところから一見普通っぽいミステリに見えながら、最後の謎解きで犯人の意図が明らかにされた瞬間に併行して語られていたデパートの火災事件の眞相へと繋がる構成がやはり見事。
「狐の面」にしても、その技巧は「煙の殺意」と同樣、インチキ山伏の逸話を軸に物語を展開させていく構成とその語りが素晴らしく、泡坂ミステリを讀むと、本格ミステリも小説である以上、事件の中で扱われる大掛かりトリックよりもまずその語りの技巧こそが一番重要なのではないかなア、などと考えてしまうのでありました。
収録作の本格ミステリらしい風格の中で、恐怖小説のテイストで浮きまくっているのが「歯と胴」で、解剖醫の奥樣と不倫していた男が、奥樣から旦那の殺害をリクエストされるものの、結局彼が殺してしまったのは件の奥樣の方、というところから物語は倒叙らしい結構で進むのですけど、話がどんどんイヤーな方向へとねじれていくところが何ともですよ。
解剖醫という特殊な職業ネタが見事に決まるイヤな幕引きも見事で、ある種の怪異といってもいいような偶然にぞっとしてしまうところが何ともいえません。またジャケ畫とともにいかにもユーモアっぽい松尾かおるの挿繪が添えられているミスマッチさもいい味を出しています。
普通小説めいた外見に本格ミステリらしい仕掛けを凝らした「折鶴」や「砂時計」、「ゆきなだれ」などの作品集とは異なり、シッカリとコロシも發生するし、日常の謎めいた作風や、超絶論理を凝らした作品もありと、本格ミステリファンも素直に愉しめる、創元推理らしい明快な作風が好ましい短編集、という譯で、やはりミステリにはコロシがないとね、というような方にこそ是非、とオススメしたい泡坂ミステリの一册といえるでしょう。
泡坂さんの短編は本当に物凄いと思い知らされる作品集ですね。
『煙の殺意』なんか、凡百の書き手なら「逆の話」にするところで、このあたりミステリ作法のお手本にもなります。『紳士の園』みたいな話は別段ミステリ仕立てにしなくとも、ユーモラスな小品になったでしょうに、これまたすっかりひっくり返すし。『開橋式次第』はなんだって開橋式なんだろうと思わせておいて、ドタバタの中に見事な伏線を含ませているし。さすがとしか言い様がありません。
ところで、この本の解説に出てくる「挿話」なんですが、何度読んでも主旨が理解出来ません。明確で優れたミステリの解説に不明確で稚拙なものをもってくるというのも、一つの謎だということかしら。
藤岡先生、コメントありがとうございます。
「煙の殺意」における「逆の話」というのは當にその通りで、そう流さずにこちらの話に纏めてしまうところが泡坂氏。個人的には収録作中、その動機の轉倒ぶりも含めて一番好きな作品でしょうか。
時に解説の中の插話ですけど、あの澤木氏ゆえ恐らくは深い意味があるのではないかなア、と推察されるものの、ボンクラなりにこの插話の主旨を考えるに、まず擧げられている二つの插話のうち「筆者が聞いた状況はほぼBの通り」だと書かれているので、この後段にある「人間消失の謎」として掲げられているのはBで、「超自然現象という論理で解決付ける物語」というのはAではないかと推理出來ます。
AとBの違いを見ると、Aには後日談が添えられてい、この「超自然現象」によってBの話が「怪談に転換しうる」物語Aになったということでしょう。これを「椛山訪雪図」に登場した「軸の変貌」に照應させると、Bはいわば「絢爛たる風楓の世界」で、「超自然現象」を添えた實相たるAが「蝋燭の光」によって現れたアレだということになります。
Bの插話は後日談がなければ、そのまま人間消失の謎は物語の中からたちのぼることもなく、醉っ拂いの記憶違いのお話で終わっていた譯ですけども、「人間消失」という謎を見いだしてしまうや、人はそこにもうひとつの逸話である後日談を添えてしまう。これによって、醉っ拂いの記憶違いのお話は超自然現象を扱った怪談へと變幻する。
一方、「椛山訪雪図」では、ただのコロシに、「盜まれたのは雪山図ではなかった」という謎をすくい上げてしまったことによって、單純なコロシは一轉して椛山訪雪図を絡めた件の眞相が立ち現れるという趣向でした。この逸話の變幻の樣態が椛山訪雪図の「軸の変貌」に照應している、ということだと思います。
「軸の変貌」が殺人事件を件の眞相へと變幻させる構造と同じだとすれば、上に述べた通り、「椛山訪雪図」の事件と、插話Bから插話Aへの變幻もまた「軸の変貌」と同じものである、という結論になります。これが「あの鬼気迫る軸の変貌を、筆者はそのとき、小さな形で追体驗したのだ」ということなのではないかと思うのですが如何でしょう。
「謎としてすくい上げる」と「論理で解決づける」という言葉をキモにして、以下、「騙す」ことと「殺人」とを等価とみなして泡坂ミステリの醍醐味をその「見せ方」から論じつつ、最後に冒頭の插話に絡めて、「超自然現象」を持ち出してまで謎の因果を求めてしまう人間の業に言及します。で、その因果關係の認識もまた信用出來ないものなのだ、という結論のあとに、だからこの解説も信用出來ないもののひとつであって、まア「論より証拠」、まずは本作をチャンと讀んでみてください、という「オチ」なのではないかなア、と思うのですが如何でしょう。
插話の中でふれられていた論理が「超自然現象」であることを伏線として、後半の「手近な論理」に飛びついてしまう人の業を退けて、前段で滔々と述べていた持論を引っ繰り返してしまう。で、最後は、他人の解説なんか讀んでないでまずは自分で讀んでみるべし、というレトリックかなア、と。とりあえずボンクラの自分はこんなふうに解釈してみましたよ、ということで。
わたしも薄々、この解説は、「椛山訪雪図」におけるような「軸の変貌」を語ろうとしているのではないのか、そう思って何度も読み直しのですよ。しかし、そうではない様にも思える部分がある。
無礼な言い方になってしまうかも知れませんが、ちょっと私見を述べさせてください。
当初、澤木さんは、適切な例が思い浮かばないまま、筆をとってしまったのではないかと思いました。つまり、一つのエピソードが「超常現象」と「勘違い」二通りの解釈によって、全く別のものに見えてしまうことを、なんとか「人間消失という超自然現象」と「酔っ払いの勘違い」というお話で説明しようとしたんだけれど、さすがに良い例ではありませんでしたね、ということです。
しかし、あの澤木氏がそんな手抜きをするのかなと考えたとき思い出したのは、当然ながら「いざ言問はむ都鳥」です。日常の謎と思わせながら、実は事件自体が虚構なのではという謎を提起しながら、「いざ言問はず」に終わってしまうという奇妙な味を持つ作品でした。
そうなんです、ここで澤木氏が書いているのはまさに「いざ言問はむ都鳥」の、「なにが答えか」どころか「なにが謎なのか」さえ分からないといった迷宮状況なんじゃないだろうか。
で、ちょっとわたしはカチンときたのです。確かに澤木氏はあの一作で、ミステリマニアにその存在を強烈にアピールしました。だけど泡坂さんが描く世界は(例え“箴言”を思わせるものであっても)、「陰画と陽画」みたいにピタリと反転する面白さを持っているのです。せ、わたしが泡坂さんの作品に感動するのは、そうした律儀なまでの創作体勢を決して崩さないからなんです。
わたしがバカミス作家と呼ばれる所以は「提示したものは律儀に、全部ひっくり返す」という作風だからだと自覚しています。だから、中途半端な形で提示され、解決されずに放り出される謎は堪らなく嫌。
「四万人の目撃者」に関して、厳しい意見を吐いたのもそんな理由からなのです。
この解説はそうした泡坂妻夫の明確な謎を、澤木喬流の不明確な手法で無理矢理解説しようとしたものとしか読めず、ああした物言いをしてしまいました。
それにしても、ここまで深読みしてもらえるとは、澤木氏も幸福な作家といえるでしょうね。
すみません。
わたしの二つ目のエントリは会社で書いたので、本が手元にありませんでした。だから前半の部分にはかなり事実誤認があります。taipeiさんと澤木さんにお詫びいたします。
ただ、回収されずに放棄された謎に関しての考えは変りません。
藤岡先生、こんにちは。
「「陰画と陽画」みたいにピタリと反転する面白さ」というのは當に泡坂ミステリの魅力を見事に表していると思います。
>> わたしがバカミス作家と呼ばれる所以は「提示したものは律儀に、全部ひっくり返す」という作風だからだと自覚しています。
「提示したものは律儀に、全部ひっくり返す」という、伏線を凝らしまくった先生の作風は、自分が本格ミステリに求めている仕掛けの大きな要素の一つであって、もしこの作風のゆえに先生がバカミス作家と呼ばれているのだとすれば、うーむ、……何とも複雑な気持ちを抱いてしまいます。
自分にとっては、「白菊」も「ギブソン」も極上の本格であって、謎の斷片が伏線とともに後半に至って見事な一つの繪となって立ち現れる「白菊」とかが、その伏線の技巧ゆえにバカミスと呼ばれ、正統派の本格としての評價を受けていないままなのだとすれば、それはちょっと違うような氣もします。いや、勿論正統な本格ミステリとして評價を受けつつ、バカミスとしても讀者が愉しまれているというのであれば全然ノープロブレムな譯ですが(笑)。