野球音癡でもノープロブレム。
本作を社会派推理の枠の中で語ってよいものか、今ひとつ社会派というものをよく分かっていない自分としては判然としないのですけど、極上の毒殺トリックとミッシングリンクを絡めた作風乍ら、個人的には捜査から推理に到る見せ方のうまさを堪能出來る本格ものとして再讀してみました。
野球に關してはまったくのド素人ゆえ、本作の舞台背景については輕くスルーしつつあらすじを簡單に纏めますと、まず冒頭、花形選手が試合中に死んでしまう。で、この試合を見ていた検事はその死に方に何か釋然としないものを感じてお節介にも色々と調べていくのですけど、強引に死体の解剖を行った結果どうやらこの選手は毒殺されたらしいということが分かります。しかし肝心の毒が何であるかが特定出來ない。
その一方、もしこの事件がコロシだとしたら動機を持っているのは誰なのか、検事は同じ球団の二番手選手やその戀人、更には死んだ選手が経営していた喫茶店の關係者などを調べていくのだが、……という話。
本作ではこのコロシに使われた毒が何であるのかがハッキリしないというところがミソで、それがハッキリとしない故に、「この事件には現場というものがない」とする検事の指摘は秀逸です。
どうやって毒は選手の体の中に入ったのかかが判然としないゆえに、「兇行の行われた時間というものが……不明であ」り、「したがってアリバイというものも意味をなさない」ということが傍點つきで語られているのですけど、その為にこの事件は本格ミステリでは手番の展開となりえる筈もなく、検事はコロシの背後關係を地味な捜査でジックリと洗い出していく譯です。
本格ミステリ的な「推理」が展開されるにはまずその「推理」の起點となる「氣付き」みたいなものが必要で、本作ではコロシのキモとなる毒の正体が判然としない一方で、二番手選手の野球ぶりから検事がある事柄に氣がつくに至り、それをきっかけにしてこのコロシの背後にある樣々な事象を繋げていくという展開が面白い。
推理よりは、その前にある「氣付き」の段階を丁寧に描き出していくことによって、物語の中盤以降はミッシングリンクを見所とした展開となっていくのですけど、検事が推理の起點となる部分を、野球選手の精神状態や女の性みたいな人間心理に依據しているところが、本作に通底する文學的香氣と解け合ってまたいい味を出しているように感じました。
土屋ミステリとかだと、警察側が犯人認定した人物を調べていく過程で捜査が行き詰まるのが御約束、そこから唐突に探偵役がそのトリックの啓示を得るみたいな展開がちょっとなア、なんて感じていた自分としては、本作の探偵役である検事が安易な天啓に頼らずに、冒頭のコロシから一歩また一歩と退きながら事件の全体を俯瞰していくことによって、毒殺の背景にあるものをじっくりと炙り出していく手法が冴えています。
毒殺事件を中心とした捜査が先の見えない展開になってきたところから、この事件をひとつの點とみなして、その背後に隠された面を俯瞰していくところが検事の視點から非常に丁寧に描かれているところが素晴らしく、これによって被害者の立ち位置が毒殺事件の被害者から事件全体の目撃者であったのだ、ということが明らかにされていくところなど、探偵役の検事が「氣付き」から「推理」へと移行していくところを中盤の大きな見所としている構成も個人的にはツボでした。
それと野球界を物語の舞台に据えながら、事件の背景には戰爭体驗が暗い影を落としているところも獨特の味を出していて、検事が表参道を訪れた時にふと東京の空襲体験を思い起こすシーンなどがさりげなく挿入されているところも印象的。
検事の視點が物語の殆どを占めながら、その一方で花形選手の死によって一躍表舞臺に上がることになった男の煩悶がまた検事の氣付きを助けているところなど、小技を効かせた構成も光ります。
本格原理主義者や本格理解者からすると、探偵役やボンクラたちが密室だアリバイだと作中で大きな声を上げないゆえ、本作もただの地味な社会派推理小説、みたいな評價になってしまうのでしょうけど、本格ミステリにおける探偵の推理とは如何なるものなのか、みたいなところを意識しながら再讀してみるのも乙なものかと思うのですが如何でしょう。
毒殺事件がミッシングリンクものへと轉じる展開をぎこちないと思うか、或いは氣付きから推理への過程を丁寧に描き出すことの必然としてこのミッシングリンクへと轉じる構成が用意されていたのだと感じるか、色々な讀み方があるかと思います。現代的な視點で舊作を讀み解いてみたいというボンクラとしては、本作もなかなか愉しむことの出來た一册でありました。
以前、自分のサイトの日記に書いたのですが、この作品ラストの1ページに衝撃の展開があるのですよね。それは収拾しきれなかった伏線に関して「そんなことは、もうどうでもいい」と言って放棄すると言う荒業です。その一点を以ってわたしは、この作品を認めることが出来ないのですがねえ。いかがですか?
藤岡先生、コメントありがとうございます。
確かに呈示された事件の眞相の總ては後半の謎解きによってすべからく解明されるべし、という本格ミステリの原則にたてば、最後に「そんなことは、もうどうでもいい」といってしまって抛擲するのはアレなんですけど、この點については實をいうとそれほど氣にはなりませんでした。
で、何故自分はこの點についてアンマリ氣にならなかったかということを考えてみると、まずこの會話のところで呈示されている事件は二つとも、探偵役である検事「の側」で發生した事柄である、ということが擧げられるでしょうか。また「Xからの挑戦」の第四節では、検事に送られてきた脅迫状について事務官と會話するシーンがあるのですけど、
「すると、今の状況から考えて、確証はないが、脅迫者は、< 個人名>、或いはその一味ということになりますね」
「多分ね」
とあからさまに語らせています。つまり、この時點で既に、脅迫状はここで個人名を擧げられている人物との共謀である、ということが暗示されていて、探偵役である検事の意識はここに擧げられている事件の首謀者にのみ向いているようにも思えます。つまり、「その一味」の手による事柄はどうでもいいと。
このあたりは後半、「石切場の緑の水」の第四節で、検事がこの首謀者について、
「笛木君」
「は」
「僕は、この事件に職を賭けた。< 個人名>という男は、今迄僕の前に現れた、最大の敵のようだ」
と語っているのですけど、最初の毒殺事件とミッシングリンクで繋がる一連の事件をこの物語で語られる本流とすれば、検事「の側」において發生した脅迫状と空気銃という二つの事件は、毒殺事件の本流から眺めればあくまでも全体の「事件」から派生した傍流に過ぎない。従って事件の主犯であり宿敵でもあった人物を追いつめたことによって、探偵である検事の中ではこの全体の「事件」は収束し、自分「の側」で引き起こされた二つの件はそれゆえに「もうどうでもいい」ということになったのでは、なんて思ったりします。
勿論、物語の外にいて本格ミステリ的な謎解きを期待している讀者にしてみれば「おいおい、雜魚が引き起こした事件とはいえ、どうでもいいはないだろう」ということになってしまうのですけど、總ての事件の謎解きをしてみせる「推理」よりは、その「推理」の起點となる「氣付き」に着目して物語の中盤以降の展開を愉しんだ自分としては、この「どうでもいい」もそれほどの瑕疵とは思えなかった、という次第です。
という譯で、このエントリでは、伏線の回収の物足りなさという「推理」の瑕疵については敢えて語らず、寧ろ中盤の見所である「氣付き」の部分の魅力を強調して纏めてみたのですけど、……それでも、ダメですかねえ。
確かにtaipeiさんのおっしゃる通りなんですけど、最後になって「どうでもいい」というのは、登場人物が事件の本質とは関係ない瑣末的なことをとやかく言うのは止めようやといった状況ではなく、明らかに作者が、書くのが面倒になって投げ出したという印象があっていやなんです。
「脅迫状を書いたのは?」
「わからない」
「空気銃を撃ったのは?」
「○○かも知れない。××××の仕事かも知れない。しかし、そんなことはもうどうでもいい」
「試合開始ですよ」と事務官が言った。
なんて放り投げずに。
「脅迫状を書いたのは?」
「きみだって薄々分かっているんだろう?」
「ええ、まあ。では、空気銃を撃ったのは?」
「そのことなら、以前話したじゃないか。さあ、そんなことはもうどうでもいい。試合開始だ」
てな具合にごまかすことだって出来たはずなんですからね。
職場放棄としか思えないのですよ。
確かにこの瑕を以ってして否定してしまうのには、勿体ない作品かもしれません。
成る程ー。これは自分のような一讀者からの視點と、先生のような作家の視點の違いかもしれません。確かに送り手側にいる作家から「職場放棄」といわれたら恐らく作者の有馬氏も苦笑するしかないでしょう、……って考えていたら今、もうひとつの可能性を思いつきました。
本作は「週刊読売」に連載された小説だった譯ですけど、最後の連載は週刊誌ゆえ、文字數の制約もあって編集者から削られてしまったという可能性は如何でしょうか。いや、勿論文字數の制約があるのであれば、その中でキチンと仕事をするのがプロの仕事だとは思うのですけど、一應、ボンクラならではの妄想、ということで(苦笑)。