「世紀末日本推理小説事情」を再讀しつつ、新保氏の師匠、権田御大の過去の日記を讀んでいたのですけど、2006年01月25日の日記で、「あの件」について取り上げておりまして、二階堂笠井兩氏の主張を取り上げつつ、最後の一文は「あくまで、2人の若き論客の論争を読んでの個人的感想である」となっているところが微笑ましいなあ、と思った次第。成る程、御大からすると、二階堂氏も笠井氏も「若手の論客」なんでしょうねえ。
「世紀末日本推理小説事情」を再讀しつつ、新保氏の師匠、権田御大の過去の日記を讀んでいたのですけど、2006年01月25日の日記で、「あの件」について取り上げておりまして、二階堂笠井兩氏の主張を取り上げつつ、最後の一文は「あくまで、2人の若き論客の論争を読んでの個人的感想である」となっているところが微笑ましいなあ、と思った次第。成る程、御大からすると、二階堂氏も笠井氏も「若手の論客」なんでしょうねえ。
一言だけ。
海原が私で、カレーが本格推理小説、っていうのは分かるんですよ。しかしここでいう店主が本格系評論家っていうのはおかしくないですか。店主っていうのは、カレーをつくって客に出しているんだから、ここでいう客が讀者だとしたら、店主はやはり本格推理小説を書いている作家になるのではないかと。何故これが批評家に向けた喩え話に化けてしまうのか、莫迦な自分にはサッパリ分かりませんよ。
以前の家電の喩えも自分としては、はてなの嵐だったんですけど、またまた今回の喩えも多分に謎が多い氏の発言なのでありました。
上の話に何が何だか、という方は某氏の昨日の日誌を参照、ということで。
[01/07/06: 追記]
氏の文章を再讀していたらやはり一言では氣が濟まなくなってきたのでもう少しだけ。果たして「本格」っていうのは「勉強」するもんなんですかねえ。前に千街晶之氏の傑作「水面の星座 水底の宝石」を取り上げた折にもちょっと書きましたけど、その小説が本來持っている愉しみ所を巧みに掘り起こし、それを明快に示してもらう。それこそは自分が批評家に求めているものな譯で。
小説を讀み解くという作業において、その答えが事前に用意されている筈もなく、受験勉強みたいに模範解答があって、その通りの解答が提示されれば正解とかって、小説を讀み解くという行爲はそんな簡單でお氣樂なものじゃないでしょう。これを勉強して云々なんてナンセンスですよ。それとも氏のいう「本格推理小説」とかいうものは、そういうふうに受験勉強めいた作業の末に解答が導き出されるようなものなんですか。それって小説じゃないでしょ。パズルですよ。