昔のオンナ、謎女。
泡坂氏の、地味乍らミステリの技巧を小説的な感動に昇華させた素晴らしい作品集。過去の女との謎めいた邂逅が悲愴な結末をもたらすという結構の作品が多く、ダメ男の視點から見た泡坂ワールドの女性がまた非常に魅力的に描かれているところなど、ファンには堪らないところでしょう。
収録作は、老舖和菓子屋の中年男が、とあることをきっかけにかつて憧れだった女性と再會、ミステリ的な轉調が悲劇的な感動をもたらす表題作「ゆきなだれ」、古手紙から一人の男の犯罪を描き出す「厚化粧」、一年に一度きりの謎女との逢瀬に隱された意外な事實とは「迷路の出口」、浪花節の師匠の不可解な死から一つの犯罪が明らかになる「雛の弔い」、元書生君が奧様の裸婦像を描いた繪描きの正体を探る「アトリエの情事」、刺青姐さんの彫り物にまつわる壯絶な愛「鳴神」など全八編。
ミステリ的な仕掛けが素晴らしい効果を上げているのが表題作の「ゆきなだれ」で、主人公は妻を病気で亡くした恐妻家の中年男。組合の例會に出た時に、そのなかの一人が見せてくれた旅先のスナップに、かつて自分が惚れた女が寫っていたということで男はスッカリ有頂天。
何しろ二十年、恐妻にビクビクしながらも、頭の片隅ではボンヤリと彼女を想っていたという地味男の行動は俊敏で、電車に乗って彼女がいるという店へと急行。再會を果たすや二人はイッキに盛り上がります。
何でも彼女はかつて男と別れる前に一度だけこの男とエッチしたことがあって、また會いたいと駄々をこねる男のお強請りも無視して彼女は行方をくらましてしまったとのこと。時は流れ、女はすでにこの土地の男と結婚して小料理屋を切り盛りしているという。しかし盛り上がった思いはとまらず、女は頑固な主人を説き伏せて男の元に行くといってきかない。しかし後日、その店の主人が殺されたという知らせがあって、……。
このミステリ的な仕掛けが物語の展開に見事な轉調を添えていて、何処か夢の中の出來事ようだった恐妻君と彼女との出會いが唐突にも斷ち切られ、そのあと女の悲劇的な過去が明かされていくという構成が秀逸。夢やぶれてリアル世界に取り殘された男の悲哀が効いている幕引きも素晴らしい傑作でしょう。
大人の男女の機微を巧みに描いた恋愛物語とはいえ、何処か現実離れした獨特の雰圍氣が感じられるのが作者の風格で、そんな中でも謎めいた女ネタでは「迷路の出口」がいい。
主人公のカメラマンが個展を開いていたところにとある女が訪ねてきて、彼女はその中の一枚の寫眞がひどく氣に入った樣子。男は彼女の素性も知らずに洒落たデートをした後、例によってエッチするんですけど、別れ際に女はまた一年後のこの日に逢ってくれという。
実際その約束は守られるのですけど、彼女の魅力に悩殺されてしまった男にしてみれば一年間のおあずけはツラい。當然、彼女がどんな人物なのか、何故一年に一度、この日だけの逢瀬なのか、その理由を探りたくなってくるのは當然、やがて彼はある新聞記事をきっかけに一つの事實に思い至るのだが、……という話。
男の推理はあくまで頭の中で組み立てた想像に過ぎず、彼はそれを女に確かめることなく、女の謎を謎のまま受け容れるという幕引きが、何処かお伽話めいた美しい餘韻を残す佳作でしょう。一年に一度きりの逢瀬を女が行う動機は非常に風變わりなもので、男は完全にそのある行爲を行う為のダシにされた恰好なんですけど、それを受け容れてしまう主人公の、男として度量の深さは見習いたい、……譯ないか。
「ゆきなだれ」と同樣、ふとしたことで過去の女のことを思い出し、……という趣向が見事に活かされているのが「アトリエの情事」で、こちらの主人公は元書生。新聞の文化欄に掲載されていた裸婦の繪を見て、この繪のモデルは自分の知っていた女性に違いないと男は確信。
この女性というのが、ずっと昔、自分が書生として働いていた主人の奧様で、どうやらこの奧様は人目を盗んで某處のアトリエで男と逢い引きしていたらしい。主人の命令で尾行したときには奧様に見つかってしまい、書生君の探偵プレイは大失敗、奧様にはアトリエの中に誰もいないことまで確かめさせられたところから、主人には浮気の兆候ナシ、と報告する他なく、その時はおかしいと思いはしたものの、今考えると、あの時の浮気相手がこの繪描きに違いない。しかしだとすると、あの時、男はどうやってあのアトリエから拔け出したのか……。
密室というミステリ的趣向を添えつつ、後半の推理で奧様の秘密の愉しみが明らかにされると同時にその謎が一度に解明するという構成が面白い。ミステリ的な謎掛けはあくまで控えめに、物語の時代背景と人間の機微を巧みに描いて一編の小説に仕立てたストイックさがいい。
殺しが出て來ないとミステリじゃない、という偏屈マニアにおすすめなのが「雛の弔い」で、浪花節の師匠から破門にされた男が主人公。物語は彼が音信不通になっていた師匠の死を知らされるところから始まります。何でもこの師匠は水のはっていない風呂桶ン中で絶命していたというのだけども、耄碌していた樣子もない。
果たして師匠は何故そんな妙チキリンな死に方をしていたのか、というところがキモなんですけど、物語はこの老人の死はあくまで脇に据えたまま、彼が師匠の後妻をもらって、彼女の三味線と一緒にスターダムにのぼりつめるまでを淡々と描いていきます。
三味線弾きの妻を大空襲で亡くしてからこの師匠はおかしくなったというのだが、どうやらこの妻の死にも怪しいところがあるらしい。そして師匠を中心に据えて描かれていた物語が轉じて、別の人物の視點から見るとまったく違ったものに変じてしまうという趣向が素晴らしい。妻の死の真相がもたらす驚きの余韻を保ちつつ、老人の死の謎が解き明かされる構成もいい。
市井の人がふとしたことをきっかけに過去の女と再會、劇的な出來事に卷き込まれるという展開乍ら、抑制された味のある文体によって描かれる物語は非常に靜的。悲劇的な人生を孕みながらもその運命を静かに受け容れる健氣な女性たちが彩りを添えているところもまた物語に何ともいえない味わいを添えています。
「折鶴」に収録された作品に比較するとミステリ的な技巧は控えめながら、「ゆきなだれ」の中盤の轉調や「アトリエの情事」の「密室」、さらには「雛の弔い」の物語の反転など、手堅い仕掛けを堪能できる作品集。「折鶴」が氣に入った方は愉しめると思います。
taipeiさん、おはようございます。
『ゆきなだれ』はわたしが一番好きな泡坂作品です。
今覗いただけで、「その店の主人が殺されたという知らせがあって、……」とフレーズを目にしただけで、胸の奥にじーんとくるものがあるのです。今、再読して泣いてしまいました。
いいなあ。凄いなあ。ミステリって素晴らしいとつくづく思いました。
藤岡先生、こんにちは。
この店の主人が殺された、という内容が明らかにされた刹那に現れる轉調が本作では素晴らしい効果を上げていて、自分的にはキモなんですよねえ。
自分は本作のような泡坂作品や、ここでも度々取り上げている連城氏の作品を「ミステリ」として紹介していることに已然として少しの躊躇いがありまして、そんな中、先生がこの作品をシッカリ、ミステリとして評價してくれているのは嬉しいですね。
結局自分にとっての面白いミステリっていうのは、本作のように「仕掛け」が小説的技巧にまで昇華されている小説なんですよね。で、泡坂氏の作品は當にその典型な譯です。殺人事件は起こらなくも問題ナシ、かといって一般的な日常の謎系の作品にはどうにも物足りなさを感じてしまうというのはこのあたりにあるのかもしれません。これはまたまた長くなりそうなんで、また機會があったら書いてみたいと思います、……っていいながら結構そのままにしてあるネタが結構あるなア、と今氣がついた次第です(爆)。