物語の神、神の物語。
歴史的傑作「デカルトの密室」に續くロボットケンイチくんシリーズの連作短編集。作者である瀬名氏の氣合と意気込みをヒシヒシと感じられる本作は「デカルト」同樣、ミステリ史に残「す」べき傑作だと感じました。
収録作は、キ印博士がビルドしたチェスロボットとヅカ系ヒロイン玲奈との行き詰まる攻防を描いた「メンツェルのチェスプレイヤー」、これまたキ印博士が創出した独裁島での不可能犯罪を巡る冒険譚「モノー博士の島」、人間不在のロボット王国に拉致されたケンイチが神、信仰、人間、自由意思について思弁する超絶操りミステリ「第九の日」、そして表題作で展開されたダウナー地獄から新しい物語の立ち上がりを予感させる後日談「決闘」の全四作。
そのすべてが中編とはいえ、「デカルトの密室」にも勝るとも劣らないほどに樣々なテーマが一編一編にブチ込まれている故、讀みごたえは十二分。しかし乍ら嬉しいのは「デカルト」ほど作中で展開される思弁が難解でなく、非常に平易に語られていることで、「第九の日」を除けばそれぞれがエンターテイメントとしても最高に愉しめる作品に仕上がっています。
物語の雰圍氣は前半と後半で大きく異なり、ケンイチの「視點」を物語の中核に据えた前半の二編「メンツェルのチェスプレイヤー」と「モノー博士の島」は、とりあえずポーとかウェルズとかは頭から抛擲して、エンタメの濃度を思い切り堪能したい作品です。
キワモノマニアとしてはキャラ立ちまくったキ印博士が登場する前二作がお氣に入りで、特に「モノー博士の島」に登場する巨漢博士の異樣さは二重丸。独裁島に障害者を集めて自らの研究成果を投入、超絶アスリートを育成するという奇天烈ぶりは勿論のこと、巨漢に黒衣とグラサンといういでたちで特別観客席から競技場を見下ろしているというベタな画もナイス。
物語の中でこの巨漢博士は自らの研究によって改造した肉体をピストルで撃たせるというパフォーマンスを披露するのですけど、ピストルで胸を撃たれてもピンピンしている博士が衆人環視の状況で銃殺されてしまう。果たして犯人はいかにして銃を放って博士を殺すことが出來たのか、という開かれた密室をミステリ的な趣向に据えつつ、この「事件」の背後には樣々な思惑が絡んでいたことが中盤以降の謎解きで明かされていきます。
超人的な推理力で、博士が殺害された後の混乱状況の真相を解き明かしていくズカ系ヒロイン玲奈の活躍も素晴らしく、中盤を過ぎてからの行き詰まる展開も含めてエンターテイメントとしての風格が際だった作品でしょう。
博士を殺した犯行方法についてもまた、ベタともいえるトリックが用意されているゆえ、普通のミステリ讀みも十分に愉しめると思います。
「メンツェルのチェスプレイヤー」も、ロボット自由意思など思弁的なテーマが提示されているとはいえ、玲奈と殺人ロボットとのチェスプレイに絡めて、博士は果たして本當にロボットに殺されたのか、もしそうであればどうやって、……というミステリ的な謎解きを中心に展開されていく構成は難解な部分を拔きにしても面白さは滿點です。
博士の口にした妙な一言から犯行方法が解き明かされていく推理の流れや、樣々なところにポー・リスペクトを感じさせるところなど、島田御大の「二十一世紀本格」に収録されていた作品ということもあって、本作の中ではもっとも「普通の」ミステリに近い作品といえるでしょうか。
クライマックスで本作のテーマの一つでもある「視點問題」に絡めた仕掛けが明らかにされるのですけど、この異樣さにも注目で、ミステリ的な「仕掛け」とは大きく異なるこの「仕掛け」が本作に通底する主題とどのように絡んでいるのか、このあたりが續く「第九の日」ではまったく違った趣向として物語を構成しているところが素晴らしいと感じました。
で、表題作「第九の日」は、前二作とは異なりエンタメ度は大きく後退、ケンイチが英国でロボットしかいない町に連れ込まれるところから始まります。物語はケンイチがこの奇妙な町の仕掛けを解き明かしていく場面と、狂信者が仕掛けたロボットテロを追い掛けていく祐輔の視點から描かれたシーンとが併行して語られていきます。
作中、祐輔が「視点位置。自己。自由意思」と呟く場面があるのですけど、當にこの三つは本作の重要な主題でもあり、ここへさらに神と人間、信仰などといった重厚なテーマを絡めてあるゆえ、難解さという點では収録作の中でも最強、……とはいえ、あんまり難しいことを考えなくとも、ロボットの町で相次ぐ事件、謎めいたライオンの正体、さらには祐輔のパートで語られるテロ事件がケンイチの場面とどのように繋がっていくのかを追っていくだけでも本作は愉しめると思います。
個人的には、後半、祐輔が黒幕のワルと対峙しながら、作者と読者、物語、小説、さらには物語ること、小説を讀むということについての議論を鬪わせるシーンが壓卷でした。このワルは祐輔の小説にケチをつけながら「ロボットを殺せるのか」だの「ロボットに殺されるよ」なんて脅し文句をチラつかせて祐輔に追いつめていくんですけど、ここの語りが非常に見事で、特に祐輔が自らに言い聞かせるように「ケンイチは殺さないよ」「ケンイチは殺さない。そう信じている」という台詞におけるケンイチ「は」という言葉が非常に印象的。
で、このワルと別れる最後のシーンで祐輔が「あなたにとって本当の読者はどこにいますか」という問いに答えるところがあるんですけど、
「本当の読者はどこかという質問には、やはり答えられない。ぼくたち作家は、読者を選べない。ルイスが自分の読んだ本の中から憧れや歓びを恣意的に選ぶことができなかったように、歓びと喪失は彼らにとって抗いようのない運命以外の何ものでもなかったように、ぼくたちは決して読者を選べないんだ」
「CRITICA」での法月氏によるインタビューで「デカルトの密室」が思ったほど賣れなかったとボヤき、このケンイチのシリーズの今後についても「僕が生きていて、科学が続く限り、いくらでも続けられそうな気がしていますが、読者に歓迎されないと発表できませんから」と語る瀬名氏の複雑な心情がこの台詞に込められているように感じられるのは氣のせいでしょうかねえ。
この「CRITICA」のインタビュー記事は本シリーズを讀み解くには必讀ともいえる内容で、「デカルトの密室」と本作を描く上での戰略と方法論がかなり詳細に語られています。何でも「デカルト」はミステリ界隈からは受けが惡かったようで、法月氏によればその最大の理由は「作中のハードな議論についていけなかった」とのこと。
このあたりが自分としてはちょっと理解出來なくて、そもそも小説なんだからハードな議論が隅々まで理解出來なくとも、前半にハリウッド的なエンターテイメント要素を交え、中盤にはミステリ的な趣向を凝らした作品ということで「デカルト」はそちらの方向からも十分に愉しめると思うし、正直に告白すればボンクラな自分は「作中のハードな議論」の恐らく半分もキチンと理解出來ていないと思います。
まあ、愉しめるか愉しめないか、とそれだけを小説の評価軸にしている自分としてはそれでもまったくノープロブレム。作者の瀬名氏的にはキチンと作中のテーマを把握出來ない自分のようなボンクラ讀者は不滿なのかもしれませんが(爆)。
最後に「CRITICA」のインタビューの中で、「デカルトの密室」に關して法月氏の印象的な言葉があったので簡単に引用しておきます。
しかしミステリファンの食いつきがいまひとつだったという意味では、二〇〇五年は同じ理系でも「容疑者Xの献身」(東野圭吾)ではなく、「デカルトの密室」がまだ受け入れなかった年だったと、四、五年先にそうとらえられる日が来るのではないか。
「デカルト」に比較すればよりエンターテイメント方向に振られた作風が素晴らしい本作が、ミステリファンのみならず多くの讀者に評價されてもらいたいなア、と切實に思います。瀬名氏の發言を鑑みれば、本作が賣れないとこのシリーズの續きは讀めないことになる譯で。
「メンツェルのチェスプレイヤー」や「モノー博士の島」で暗示されているテーマと、「決闘」で盲目の人間ダルマになりはてた祐輔が自己の肉体をロボットに近づけていくことで、この「物語」とテーマはどのような變容を遂げていくのか。書かれなければ「ならない」物語はまだまだたくさん残されています。その為にも本作がもっとモット賣れてもらわないと困る譯ですよ。
繰り返しになりますけど、「デカルトの密室」に比較すれば本作はそれほど難解ではありません。「デカルト」に今ひとつピン、とこなかった方も、本作を讀まれてまた一度「デカルト」を再讀するというのもアリかと。さらに「CRITICA」のインタビューを讀まれれば、瀬名氏がこのシリーズでやろうとしている試みについても更に深く理解出來るかと思うので、こちらも併せて目を通されることを強くオススメしたいと思います。