小市民奈落行。
「ゴメス」か「暗い落日」かと本棚を探していたんですけど見つからず、ミステリ系ではハードボイルド、スパイ小説の傑作で知られる作者にしてはまったく毛色の異なる短篇集であるこちらをとりあえず今日は紹介したいと思いますよ。
結城昌治といえば和製スパイ小説の傑作「ゴメスの名はゴメス」や「暗い落日」をはじめとする真木三部作のイメージが強い譯ですが、直木賞、吉川賞を授賞した文學派でもありますから、吉村昭が惡魔主義を炸裂させた傑作「仮釈放」をものにしたのと同樣、人間の深淵をさらりと描くのにも長けた業師でもある譯です。
で、本作はマイナーな短編集ながら、作者のそんな惡魔主義をビンビンに堪能出來る作品集。妄想激しいマエストロならぬ凡人指揮者がとある妄執に囚われて身の破滅を迎える表題作「指揮者」、癡呆老人を主題に据えつつそこにブラックな結末を施して小市民を奈落の底に突き落とす「切符」、これまたコスい小市民どもはすべからく地獄に堕ちるべしという作者のニヤニヤ笑いが素晴らしい「血統」、モテもしない小市民の中年男が若い女の奸計に嵌められる「一時間後」、仲間内で一番影のうすい小心男の妄想に卷き込まれる小市民の受難「喪中につき」、何ともオチが効いている大人の味わいショート・ショート三篇など、小市民を主人公に据えて奈落の底に突き落とすのをニヤニヤと愉しむその味わいは、現代版渡辺啓助といった風格さえ感じられます。
最初を飾る「切符」は旧友の葬儀で再會した男二人の會話から始まるのですが、主人公となる小市民男が相手の顔を見て「こいつは卑しい顔になった」とか心の中でブツブツと呟くところからしてナイス。で、この主人公はこのとき話題にのぼった友人を訪ねていくのですが、どうやらこの「卑しい顔になった」男曰く、その友人というのはボケてしまっていて、亡くなった自分の妻と息子の嫁の区別もつかないという。
で、主人公は自分も息子の嫁と暮らしているものですから、そんな自らの境遇に照らし合わせて色々と埒もないことをダラダラと考えたりするのですが、友人がボケていないことを確認して家を辞すなり、妙チキリンな婆さんに出会ってしまう。どうやらその婆さんはボケていて自分の家が分からないというので、小市民の主人公は婆さんが握りしめていた切符を頼りに彼女の家まで連れていくのだが、……という話。
とにかく作者から小市民の認定を受けてしまった作中の人物は盡く地獄に堕ちるというのがこの結城ワールドでの法則でありますから、友人が齒莖を剥き出しにしてニヤニヤ笑うところを「卑しい顔になった」なんてブツくさいっているような輩はもうそれだけで作者から小市民の認定を受けてしまう譯です。で、ひとたびそうなればどんなことがあっても逃れることは出來ません。で、友人の卑しい顔にウンザリし、癡呆の婆さんを嘲笑しているような小市民主人公はここでも何ともな結末を迎えます。でもこれ、歳をとっては年々老人力をつけてきている自分としては完全に恐怖小説になってしまうところが何ともですよ。
續く「血統」は金持ちの伯父の遺産のことを思案しつつ、会社から独立、そして成長著しいエレクトロニクス産業で金を儲けてウハウハなんてことを考えている三十五歳のこれまた小市民男が主人公。男は競馬にも入れ込んでいて、伯父にそれとなく競馬で一山あててみないか、なんてリコメンドしてみるんですけど、餌にした馬券も大ハズレ、伯父に嘲笑されつつも、畜生、この伯父が今死んでくれれば遺産が轉がり込んできて今こそ独立出來るのに、何ていかにも小市民的な妄想に悶々としていたある日、何と川崎で伯父がブッ斃れて病院に運ばれたという。
そして今までは旅行に行ってくるなんて惚けていた伯父が全財産を競馬につぎ込んでいたことが発覺、のみならず借金まで拵えて競馬に入り込んでいたというから尋常じゃない。眞相を知ってしまった小市民を待ち受けている地獄とは果たして、……という話。
續く「約束」は子供二人を軸に据えて展開される物語で、自分の母親を訪ねてくるおじさんはよくお小遣いをくれるのですけど、この主人公の子供は何となく母親とこのおじさんの「大人の関係」をボンヤリと乍ら察している譯です。
しかしおじさんにお金をもらって、自分のことは内緒だよ、なんて約束をしてしまったから母親にいくら文句をいわれようがそこはじっと我慢の子でいる譯ですが、そんなある日、警察がやってきて、……という話。収録作の中で珍しく小市民らしい人物が登場せず、謎を残した終わり方をするところが洒落ています。子供の視點から見たブラックな幕引きが素敵な逸品でしょう。
「一時間後」は町中で偶然再会した会社の女性に「わたし、昔から部長のことが好きだったんです」なんてコクられてしまった小市民の中年男が主人公。元部下の可愛くて若い女性と再會して「昔から……」なんて衝撃の告白を受けてしまってはそこは小市民、小躍りしない筈がありません。
男はいわれるままデートを約束をとりつけて高級フランス料理で腹ごしらえを濟ましたあとホテルに入るのだが、そこにはトンデモない奸計が仕組まれていて、……という話。小市民にうまい話はやってこない、という教訓を頭にたたき込むには最良のテキストといえる佳作でしょう。
で、表題作である「指揮者」は、本番前にあまりの緊張の為に氣持ち惡くなってトイレの個室でゲエゲエやっている小市民の凡人指揮者が主人公。トイレの個室で気持を落ち着けているところに男二人が入ってきて何やら噂話をしている樣子。その話、それってもしかして俺のことかよ、という妄想がこの主人公の頭の中に芽生えてしまう。
そうなるともうその妄想が氣に掛かって仕方がない。俺は樂団のあいつらに莫迦にされているんじゃないか、とそのことばかりを悶々と考えてしまうのですが、ある時その妄執を払拭するグッドアイディアを思いついたのが運の尽き。本番中に指揮棒をいきなり止めてみたらどうなるだろう、というのがそれで、もし樂団員が自分の指揮棒を見ながら演奏しているのであればその場で演奏は中断されるだろう、しかしもし俺のことを莫迦にして連中は銘々勝手に楽器を演奏していたとしたら……。
小市民の特徴として、小心者であるが故に何事も出來ずにビクビクしているものの、一度凄まじい妄想にとらわれると常人以上のパワーで莫迦なことでもやり遂げてしまうというのがありまして、このマエストロくずれも最後に素晴らしい勇氣を振り絞って計畫を実行に移すのだが、……。とにかく毒の効きまくったラスト、そして惡魔主義の炸裂する素晴らしい幕引きに作者のゲラゲラという高笑いが聞こえてくるような怪作です。
そのほか、クラシックの樂団の世界を物語に据えた二編「エンドレス」と「ミステーク」もそれぞれに毒の効いた作品で、女の凄みと、スケベ外人マエストロ、モテモテ主人公を交えて人間關係の綾と暗黒面を描いた「エンドレス」が自分としては好み。「ミステーク」も樂団員を奸計に陷れようとした馬鹿者が因果應報とばかりにそのトリックを暴かれ、パイ投げのごとき黒い笑いに包まれて終わりとなる幕引きが素晴らしい。
「喪中につき」は、昔の友達だった小心者から「喪中につき」という葉書を受け取ったのをきっかけに、主人公はかつての仲間と連絡をとりあいます。で、いったい誰が死んんだんだろう、という話になるのですが、主人公の頭に回想となって甦ってきたのは、友人である小心者の妻となった女のことでありまして、喫茶店で働いていた可愛子ちゃんである彼女と実はこの主人公、バッチリ付き合っていたという過去がある。
で、かつての仲間と一緒に小心者の自宅を訪ねるのですが、死んだというのはその妻となった可愛子ちゃんだったという。小心者曰く死因は病死だというのだけども、果たしてそうなのか。さらに主人公たちが気になったのが、小心者と可愛子ちゃんとの間に生まれた子供のことで、どうにもその子供の顔というのが、かつての自分たちの仲間だったもう一人の男に激似だったというから穩やかじゃない。
主人公が友人にそのことをいうと、案の定、やはり彼もそう感じていたといい、そこで友人が実は、……と告白した話というのが何と、彼も結婚前にその可愛子ちゃんと付き合っていたというから吃驚ですよ。小心者も含めて我らは皆穴兄弟だったという事實に愕然としつつも、調べていくとその子供の顔に激似だったというかつての旧友は謎の死を遂げていて、……。
當然小心者の狂氣が後半に至って炸裂し、穴兄弟たちは盡くこのキ印となりはてた小心者によって奈落の底へと突き落とされていく譯です。しかしこの小心者の狂氣のロジックが何とも恐い。
何だか紙數も遙かにオーバーしているので、あとは簡單に。そのほかは、男の不可解な死を巡って全編が會話体で進む「某月某日晴」、そして癡漢にあった女と癡漢との意外な繋がりが最後に明らかにされる「癡漢」、彼氏と別れて整形美人となった女のちょっと笑える物語「もっと美しく」、泥棒を働いてはそのあとに被害者宅へ電話を入れる奇妙な泥棒を描いた「電話魔泥棒」など。
やはりおすすめは小市民がブラックな幕引きを迎える作品でありまして、表題作「指揮者」や「血統」「喪中につき」などがいい。飾ったところのない平易な文体がまたこの黒いユーモアに絶妙な雰圍氣を添えていて素晴らしい。渡辺啓助御大ほどハジけてはいませんけど、新惡魔主義ともいえる現代を舞台にした小市民劇場は、大人の(黒い)味わいある短篇を所望の方へ特におすすめしたいと思いますよ。