何だか自分の中ではもうどうでもいい、というかんじになっている「容疑者X」の本格論争なんですけど、とりあえず今月は二階堂氏がまた文章を掲載しているということで早速購入してみましたよ。
ざっと讀んだ感想なんですけど、何だか二階堂氏、丸くなってます。一應、それでも「容疑者X」は本格ではないという論拠をいくつか挙げつつ、最後には、
それでもなおかつ、本格的な要素があるから本格だと主張する者もいるだろう。しかし、その場合には、やはり笠井氏や小森氏が主張するとおり、「難易度の低い本格」という判断が妥当となる。
なんてかんじで、本格原理主義者にはあるまじきソフトな主張でしめくくるあたりが、氏の原理主義者としての強引ぶりを期待していた自分としてはちょっと不滿ですかねえ(爆)。
そんなわけですから、評論家の方々の意見に反論を試みているものの、その主張はあまりにマトモ。確かに評論家の主張ももっともだけど、二階堂氏のいっていることもそれはそれで納得出來るカモ、というかんじなんですよ。まあ、氏の主張の詳細については實際皆さんに當たっていただくとして、ここでは自分が何となくよく分からない部分だけを取り上げてみたいと思います。
[05/01/06: 追記]
福井氏のツッコミと杉江氏の反論を讀んでからじっくりと讀みかえしてみたところ、何だかトンデモないことばかり書いていることに今更ながら氣がつきました。ざっと一讀した印象論だけで「あまりにマトモ」なんて書いていたら二階堂氏と同じではないかと自分にツッコミを入れつつ(爆)、後ろに再讀して思ったところを追加しておきました。
杉江氏が「容疑者X」と同樣な傾向の作品として「法廷外裁判」「アデタスを吹く冷たい風」「トライアル・アンド・エラー」「叔母殺人事件」を挙げていることが二階堂氏は納得できないようで、この杉江氏の主張を「見当違いだ」と斷じつつ、以下のように書いています。
それら(「法廷外裁判とか」)はこれまでもずっと本格の文脈の中で語られてきた作品であり、引き合いに出すなら、フレッド・カサックの「殺人交差点」(ママ)やリチャード・ニーリィの「心ひき裂かれて」が妥当だ。つまり、「トリッキーな、サスペンスもの」と評するのが正解である。つまり、『X』の実態もこれに該当する。
今回の文章は結構マトモで面白くない、なんて書きましたけど、「正解である」なんていかにも「正しいのは自分だけであるッ!」と主張する俺樣的な一面がさりげなく出てしまうところはやはり二階堂氏、……ってツッコミたいのはここではなくて、杉江氏にしてみれば、上に列擧した作品が「ずっと本格の文脈の中で語られてきた作品」で「これと同樣な傾向の作品」だと思っているからこそ、「容疑者X」は本格である、と主張したいのでは。
「本格の文脈の中で語られてきた作品」と同列に竝べるのはおかしい、という主張はそもそも杉江氏のいいたいことを取り違えているような氣がするんですけど、このあたりは自分の誤讀でしょうかねえ。
それとこの文章の冒頭部分で、二階堂氏は、以下のように書いているんですけど、
それら(作家や評論家が發表した論考)をすべて読んだ人は、大雑把にいって、作家対評論家の樣相を呈しているのを発見しただろう。何故、二極化したかといえば、読み方が違う、読者として求める方向が違う、ある種の職業的要求など、さまざまな理由が考えられるが、ここでは深く追究しない。作家陣営でいうと、……
というかんじで、どうしても氏がブチあげた論争の宿敵は評論家であって、作家にはあらず、といいたいようです。しかし今月號のミステリマガジンに同時掲載されている我孫子氏の立ち位置は笠井氏や二階堂氏とも異なるし、さらに評論家の中では自分がリスペクトしている千街氏の見方もまた何人かの評論家の意見とも違っている譯で。今回の論争が作家「陣営」と評論家「陣営」とあたかも派閥的な対立軸で行われているかのような主張はちょっと、と思うのでありました。
正直、自分としてはこの「容疑者X」本格論争はもうどうでもいい、というかんじですよ。笠井氏主導で進んでいる最近の内容は、結局氏の主張の根幹をなしている大量死理論が難しすぎて理解出來ない自分にはマッタク愉しめないし、さらにいえば「殺人ピエロの孤島同窓会」という悪夢的作品が「ミステリ作品」としてリリースされ、本格ミステリのみならず、今やミステリそのものが危機的状況を迎えているという現状を無視して、やれ本格だ本格じゃないと騷ぎたてているのは如何なものか、と思う譯です。
ミステリなくして本格ミステリもありえないと自分は思っているんですけど、二階堂氏も含めた作家評論家の方々にとっては本格推理小説とミステリはまったく違うものなんでしょうかねえ。もし本格推理小説もまたミステリの中の一ジャンルであるというのなら、「殺人ピエロ」をあたかもなかったもののごとく無視して「容疑者X」の本格論争を續けているというのにはまったく納得出来ませんよ、個人的には。不毛じゃないかと。
まあ、どれが本格でどれが本格でないとか、そういう高尚な議論を行われている雲上の方々にしてみれば、自分のようなキワモノミステリマニアなどお呼びではない譯で、このネタに言及するのもこれくらいにして、今後は二階堂氏のハジけた發言とさらなる燃料投下を期待しつつ、氏の動向をネットリとしたまなざしで見守ることにしようと思いますよ。
尚、上にも書いたとおり、二階堂氏の文章とともに、我孫子氏の「容疑者Xは「献身的」だったか」という論考も掲載されています。こちらは石持氏の「扉は閉ざされたまま」を取り上げつつ、昨今のミステリの傾向を論じるという刺激的なもので、今回の論争に関心のある方のみならず、今後のミステリの動向が氣になる本讀みの方々も目を通される價値はあると思いますよ。
[05/01/06: 追記]
一讀した時は「マトモ」なんて書いてしまったんですけど、今じっくりと讀みかえしたら何だか相變わらず、というか二階堂氏の俺樣節炸裂で何ともな内容であることに今さらながら氣がつきましたよ。マトモ、と感じてしまったのは、ひとえに二階堂氏の「『印象』に過ぎないものをいかにもな論文調で語る」という氏のマジックに眩惑されてしまったからでありまして、例えば、
一方、評論家諸氏の反論の方は、全体的に説得力が乏しい。殘念ながら「本格っぽいから本格」「私が面白いと思ったから面白い」といった程度のものが多いように私は感じた。
ここで着目すべきは「私は感じた」というところでありまして、二階堂氏の評論家への批判のすべてはこの「感じた」という自らの印象から始まっている譯です。勿論直觀や印象も重要でしょうけど、曲がりなりにも素人がブログで書き散らす文章とは違ってプロの手になる論考であるならば、自分の印象論のみで他人の批判を展開させるのはマズいでしょう。またその印象や直觀を巧みな文章によって論じてみせるというのがプロの仕事ではないのか、と。
更にいえば「私が面白いと思ったから面白い」というのはイクないと批判していますけど(果たして評論家の誰がそういう發言を行ったのかはおくとして)、これって「私が本格推理小説ではないから本格推理小説ではない」という氏の主張と何処が違うのかと思ったりする譯です。氏が「いや、私はそのための根拠をキチンと示している」というのであれば、この「私が面白いと思ったから……」という一言のみをもって批評家はダメ、というのは如何なものか。
このあと「論拠の立脚点も示さず」と例によって「それならばあなたの本格の定義を示してください」と迫るところは相變わらず、しかし何度讀んでもよく分からないのは、大森氏を批判するさいに用いている「オタマジャクシばかりを追い掛けていても無意味」という文章で、これってどういう意味なんでしょう。本當に氏の譬喩は文學的に過ぎて、自分にはよく分かりませんよ。
で、一番氣になったのは、初讀の時は軽く讀み流していた以下の文章でありまして、
境界線あたりでウロチョロしているような作品を、わざわざ手を貸して本格領域へ引き込む必要性などまったくない、と私は考える。
この「「X」問題の中間決済」が、「X」が本格推理小説であるか否かを論じるものであるとすれば、要するにこれって、「容疑者Xの献身」が「境界線あたりでウロチョロしているような作品」ということなんでしょうかねえ。更にいえば、「わざわざ手を貸して」という言い方も個人的には氣に入らない。
別に「容疑者X」も含めて二階堂氏が本格推理小説ではないとする作品の總てが、「本格ミステリと認めてもらいたい」という作者の意図に書かれたものである筈もない譯で、特に「容疑者X」は作者の東野氏もそういうつもりで書いた作品ではない、ということは既に何処かで述べていたような氣がするんですけどねえ(文春のインタビューでしたっけ?)。
あたかも「俺樣は本格の王樣で、本格と認めてもらいたいおまえたちの作品を俺樣が本格として認めてやろう」という俺樣主義が炸裂する文章は、本格だの何だのを氣にせずただひとえにその作品の面白さを堪能したいだけの自分にとっては何とも不快、しかしその一方で、やはり氏は自分のことを本格推理のご意見番だと信じているんだろうなあ、ということが確認出來たのは収穫でありました。
それともうひとつ。
これがもし綾辻行人氏の『館』シリーズであれば、敵対する相手は鬼のような本格読者なのだから、それなりの方法が用いられる。つまり、手がかりや証拠をもっと巧妙に隠して、ずっと謎を引っ張り、最後に一気に真相を明かすであろう。
これってやはり綾辻センセの最新作、「びっくり館の殺人」を皮肉ってるんですかねえ。「びっくり館はこういうふうに讀むと愉しめますよ!」と孤軍奮闘して(爆)綾辻センセを擁護
している自分としては非常に氣分が惡いですよ、このセンテンス。
いずれにしろ冒頭にも書いたようにこの論争、自分にとってはどうでもいいです。現在論争の中核にいる笠井氏の、自説を展開させる論旨も最初の方は面白かったものの、何だか最近は本格の鬼である評論家も讀者も皆バカモノ、みたいなかんじで讀んでいてちょっとなあ、と思うのでありました。
更にいえば、これじゃあ「容疑者X」を既讀の人も、また未讀の潛在的讀者も全然愉しめないのではないでしょうか。本來、批評にしろ論考にしろ、その作品をより深くまたより多樣に愉しむ方法を讀者に提示すべきものなのではないのか、と自分は信じているんですけど、どうにも雲上の方々は違うようで。この中で愉しめたのは千街氏の連城の作風と比較しての論考と、福井氏の痛烈なツッコミくらいで、やはり自分はこういうコ難しいことを考えるのは苦手なんだなあ、と自らの無能さを痛感した次第ですよ。
ところで自分のような「本格の鬼」ではない、普通のミステリファンの人って、今回の論争、というか騒動をどういうふうに受け止めているんでしょう。まあ、このブログでもこのネタはこれで終わりにしたいと思います。ただ二階堂氏がさらにトンデモないことをしでかした時はこの限りではありませんけどねえ。