前回の續き。ではそんな笠井氏の意見に対して二階堂氏の主張はどうなのかというと、實際のところ、自分たちが氏のサイトで見ていた内容と同じことを繰り返しているだけで新味はありません。
ただそれでもいくつか興味深いことが書かれておりましたよ。例えば「二階堂黎人氏の掲示板で今起こっているステキなことについて」でも書いた、氏が「容疑者X」を持ち上げる評論家に対して「どこが感動」で「どこが純愛」かを具体的に説明しろ、といきまいていた件について。
ここに書かれてある、氏の「容疑者X」に対する感想を簡單に纏めると、それは「優れたミステリー」だが「優れた本格」ではない、更には「人間ドラマにも物足りなさを感じ」、登場人物である石神の一方的な思いは「ストーカーもしくは変態的な気持ち悪いものであって、けっして純愛などではない」ということになります。
つまり「容疑者X」とは、「変態的な気持ち悪い」ことを行うストーカーを描いた小説であって、評論家が持ち上げるように純愛だの何だのといった類の小説ではないッといっている譯です。本格ミステリではないのは勿論のこと、純愛小説でもないという考えを持っているが故に、評論家に対して何処が純愛なのかハッキリさせろ、といっているのです(この質問を本格系評論家に向けるのはいかがなものか、という點に關してはとりあえず無視してくださいよ)。
ただこの純愛小説云々のあたりは「ミネルヴァ」でも笠井氏が同樣の言及をしています。勿論笠井氏の洞察の方が遙かに深いものを持っているんですけど、この點にちょっと違和感を感じるというのは兩氏に共通する事柄のようですねえ。
あともう一つ、ちょっと理解出來ない記述がありまして。二階堂氏曰わく、『アクロイド殺し』は「本格だがアンフェアな作品」だそうです。で、この後に續くのが以下の文章なんですけど、
ここまで説明すれば、『容疑者Xの献身』がどうして本格ではないのか、理由は明白だろう。それは、読者が論理的な推理によって真相を見拔くに必用となる決定的な手がかりや証拠を、作者が恣意的に伏せてあるからだ。これでは、本格としての完全な条件を満たしておらず、フェアかアンフェアかの判断すら無用である。
これ、「決定的な手がかりや証拠を、作者が恣意的に伏せてある」からその作品はアンフェアである、ということにはならないんですかねえ。このあたりを『アクロイド殺し』と絡めてどう解釈すれば良いのか分かりませんよ。『容疑者X』も『アクロイド殺し』と同樣、「本格だがアンフェアな作品」ということではいけないんでしょうか。兩作の違いは何処にあるのか。
氏の主張だと、『アクロイド殺し』は「トリックの使い方に客観性の担保がない」故にアンフェアだというんですけど、このあたりに氏の考えを理解する鍵があるような氣がします。
『容疑者X』は「トリック自身」に問題がある故に、「トリックの使い方」における「客観性の担保」の検証は必用ない、ということなのか、とも考えたりするんですけど、だとすると『アクロイド殺し』は何故、そのトリック自身がフェアだと認められたのかということになります。ここで注意したいのがこの前の部分で、一應ざっと引用しますと、こんなかんじ。
『アクロイド殺し』は……(略)……トリック自体に前例もありフェアであるが、使い方に客觀性の担保がなく、アンフェアである。つまり『アクロイド殺し』は「本格だがアンフェアな作品だ」と言うことができる。
つまり「トリックに前例」があればいい、ということになりますか。これは非常に明解であり、かつ、(自分が讀んでいる限り)氏の作品において使用されているトリックは過去作において既に使われたものであることが多く斬新さは感じられない、という「事実」にも合致すると思うのですが如何でしょう。
しかしそれでも『容疑者X』で使われている倒叙トリックがそれほどまでに斬新なものなのかというと、どうなんでしょう。これって「空前絶後の大トリック」だったんでしょうか。
という譯で、やはり氏の眞意、未だ分からず、ということになりますかねえ。とりあえず氏の側に立って、二階堂氏の考えを翻訳説明してくれる方の登場を期待したいと思いますよ。