二階堂氏の今日の書き込みを讀んだんですけど、何だかこれ讀んで氏のいいたいことがちょっと分かってきたような氣がしますよ。
「容疑者X」について述べたくだりで、氏はこの作品を、作者が恣意的な意図をもって本格形式から逸脱し、それによって優れたミステリとなった、そして意図的に本格形式から逸脱しているのだからやはりこの作品は本格じゃない、みたいなことを書いています。
もしこれが氏のいいたいことの總てだとしたら理解出來ます。勿論それについていいたいことはありますけど。
まずその作品が本格推理小説に該当するかどうかっていうのに、作者の恣意的な意図は關係ない、っていうのが二階堂氏の本格推理小説の三條件の二番目「作家の動機」じゃなかったんですかねえ。これには讀者側がどう感じたかも重要になるってシッカリ書いてありますよ(2005.12.05の日記參照)。更に作者の我孫子氏が「弥勒の掌」は本格じゃないっていうのに、二階堂氏はこの作品は本格だ、と発言しているじゃないですか。
つまり恣意的な意図を持って作者がその作品を本格ではないものに仕立てたとしても、讀む側が本格だと感じたら本格になってしまうっていうのが二階堂氏の考えな譯じゃないですか(「弥勒の掌」は當にそれ)。まあこの點に關しては以前も疑問のひとつとして書きましたけど。
しかし惜しいですよ。もし二階堂氏がこの議論に「弥勒の掌」を持ち出していなければ自分もこの點に關しては完全に納得出來たんですけどねえ。「弥勒の掌」に關しては作者の恣意的な意図を無視してそれを本格とみなし、一方「容疑者X」に關しては作者の意図をくみ上げてそれを本格ではない、っていうのは一體どういうことなのか。
二階堂氏はここで、作者に恣意的な意図があって本格ではない作品を書いた場合、その作品は本格ではないといっているんですけど、しかしその意図を持って作者が超弩級の歴史的作品をものにした時、その作品が属すると見なされるジャンルが無傷で済む譯がありません。このことは以前「紅樓夢の殺人」のレビューの時に書きました。
超弩級の歴史的傑作が世に現れた時、その作品が属すると見なされるジャンルなりカテゴリは、その意味定義を含めて変容してしまう、その作品の登場によってジャンルの存在意義も含めた変更変容を餘儀なくされてしまうというのが自分の考えであります。例えば「虚無への供物」しかり「失楽」しかり。最近でいえば「イニシエーション・ラブ」や「紅樓夢の殺人」ですよ。しかし二階堂氏はそのことを絶對に認めようとしない。
超弩級の作品の登場によってその作品が属するジャンル自身もまた変わってしまうことは頑なに認めず、逆にその作品はそのジャンルの作品ではない、と退けてしまう。つまりここにはジャンルの変容も変化も展開も深化も進化も何もない譯です。変容も進化も何も認めないというのであれば、氏のいう本格推理小説には発展もない、ということになりませんかねえ。そこにあるのは守りだけじゃないんですか。
もしこの、自分の理解が正しいとすれば(ってイチイチ但し書きをつけなければいけないのは、氏の発言には意味意図不明な點が多いからですよ嗚呼)、二階堂氏と、巽氏をはじめとした批評家の意見がすれ違うばかりというのも頷けます。
何故なら批評家というのは、ミステリ史を大局的に把握しつつ、その変容の中からミステリや本格ミステリの何たるかを見いだしていこうとする譯で、ここに歴史の蓄積や変容の樣態といった所謂時間軸を踏まえた考察が必要とされるのは當然ですよねえ。一方二階堂氏の場合、このような変化変容深化進化を認めないため、結局ジャンルの存在を根底から覆すような歴史的作品が登場した場合は防戦一方、自らが信じるジャンルの変容を食い止める為にはその作品を本格ではない、と否定するしかない譯ですよ。
ここで普通の作家だったら、そのジャンルの変容を引き起こした歴史的傑作に敬意を表しつつ、その作品を更に超えるような傑作をモノにしてやるッ、となりますよねえ。批評家にしても、その、自分の理解を超えるような超弩級の作品をどうにかして讀み解いてやるッ、と腕捲りをして作品に立ち向かっていくと思うんですけど、しかしどうも二階堂氏の場合、そこのところがチョット、というかかなり違うような氣がするんですよねえ。
我孫子武丸、円堂都司昭そして今回の巽昌章に続いて
福井健太までコメント出していますね。
ある意味巽より強烈。よっぽど腹に据えかねていたんでしょうね。
何か二階堂氏の日誌を見たら、もうこの件についてはコメントしない、ということで終息してしまうみたいですねえ。流石に形勢不利となってきたので、このあたりで議論を自主的に終わらせるというのはアリだと思いますよ。もともと戰い甲斐がある、なんていってこの議論をブチ上げたのは氏自身ですからね。まあ、それでも外野としてはもっともっと盛り上がっていくことを期待してしまう譯ですけど。