最近「女王様と私」を讀み終えて、今ひとつ納得出來なかった自分としては、「葉桜の季節に君を想うということ」から「女王様」に至るまでの間、いったい何があったのか氣になる譯でして。そうなるとその二作の間にリリースされた本作を讀んで、是非とも作者の変遷を知らなければならないと思った次第です。
本作、「葉桜」と比較するとあまり、……という意見が多いようなんですけど、なかなかどうして、自分は見事に騙されたし、結構愉しめました。それにこのちょっと感動的な餘韻がいいじゃないですか。
まあ、ミステリとして見た場合、激しくアンフェアに近いところがミステリとしてはアレなんですけど、「女王様」には少しばかりイラついてしまった自分も本作は何故か許せてしまうんですよねえ。何故でしょう。まあ、その分析については後で述べるとして、あらすじなんですけど、「七年前」という章題で始まる物語は「自分が二人いればいいと思わない?」という悲劇の裏ヒロイン、アユミの問いかけから始まります。
そしてタイトルにもなっているジェシカは彼女のマラソンチームメイトという設定です。或る晩、ジェシカはアユミが丑の刻參りをしている現場を目撃してしまいます。ジェシカはエチオピアからの移民ですから、當然その現場を目の當たりにしても、アユミがやっていることの意味は分かりません。
翌日、ジェシカは意を決して昨晩のことを訪ねるのですが、アユミは体調が悪いことを理由に、ほかの人には内緒にしておいてくれと頼むばかりで答えてはくれません。
しかし暫くしてアユミはにわか仕込みの催眠術をジェシカにかけようとして、その時に丑の刻參りで呪い殺そうとしていた相手の名前を口にしてしまいます。その相手というのが彼女たちのマラソンチームの監督、ツトム・カナザワであることを知ったジェシカは驚愕し、その理由を尋ようとする。
アユミは監督の子供を妊娠し堕胎したことを告白し、その日を最後にチームを去ることになるのですが、暫くして警察がやってきて、ジェシカはアユミがロスのホテルで自殺していることを知らされます。
次の「ハラダアユミを名乘る女」の章ではハラダアユミを巡る怪異が語られるのですが、この章を經てからが本當の仕掛けの始まりです。
「七年後」「アユミ・ハラダに呪われた男」「七年後」と續く三つの章では、新潟で行われたマラソン競技中に、かつてアユミの監督であった男が殺され、犯人は誰なのかを巡って刑事の視點から物語が進んでいきます。
この仕掛けについていえば、果たしてアンフェアといえるのかどうか。或る知識があれば、恐らく容易に解けるのでしょうけど、果たしてこのことを知っている人が本作を讀むようなミステリファンのなかで一體何人いるものなのか。恐らくいないのではないでしょうかねえ。勿論自分も知りませんでした。
しかしもしその知識を知っている人間からしてみたらこの仕掛けを見拔くことはそれほど難しいことではないのかもしれません。一度讀み終えたあと、あらためて物語の視點を檢証してみましたが、確かに嘘はついていません。やはり見事に騙されてしまった自分が不覺だったと悔しがるしかないんですよねえ。
それでも今ひとつ納得出來ないのは、「ハラダアユミを名乘る女」で語られていた怪異が最後になっても明らかにされていないことです。勿論、この怪異が事前に描かれていたからこそ、冒頭のアユミの問いかけ「自分が二人いればいいと思ったことない?」が俄然活きてくる譯ですけど、やはり何となく落ち着かないというか何というか。果たしてこの章で述べられていたことは何だったのか、ただの虚假威しだったのか、と考えてしまう譯です。
「女王様と私」を讀んだ時に、作品中で語られている幻想が全て回収されていないことが納得出來ず、「ブードゥ・チャイルド」と比較すると、ミステリとしては明らに後退しているのではないか、と書いたのですけど、このあたりは本作も同じです。
しかし不思議と怒りが沸いてこないのは、恐らく本作の幕引きが「葉桜」と似ていてある種の感動的な餘韻を殘していることが理由なのではないかなと。この感動の餘韻に引きずられて、物語が終わる直前まで感じていた「おいおい、あの怪異の説明はどうなったんですかッ!」という思いが吹き飛んでしまった譯です。
飜って、「女王様と私」の場合はどうかというと、既にこの作品を讀まれた方ならご存じの通り、ひたすらダウナー系を行くというか何というか。「殺戮に至る病」にも似たイヤーなかんじで終わります。
そういう譯で、「全部アレということで話を纏めてしまうつもりかい!」という怒りが殘ったまま本を閉じることになってしまったのでありました。
またアレ系の細かい仕掛けが驅使されていて、その手際の良さ故に、アンフェアっぽいものとは分かっていても怒れないんですよねえ。やはりアレ系のミステリの場合、讀み返してみて、時制や人稱などの細かい部分に作者の配慮が行き屆いているかどうかが重要だと思うのですよ。で、本作の場合、このあたりがよく錬られていていいのです。
という譯で、幕引きの感動は「葉桜」を引き繼いでいつつも、ミステリとしては、既に「女王様と私」で見られたような、怪異と幻想を放り投げたまま謎解きは全て終わり、みたいな作風へと変化していることが分かりました。つまり「葉桜」から「女王様と私」におけるあの作風への変転は、本作の流れから考えれば必然だったとも考えられる、……んですかねえ。
あまり評判は良くない乍ら、「葉桜」の餘韻が好きな人はきっと氣に入ると思います。ミステリとしてのフェア、アンフェアに拘泥する人(エチオピアに詳しい人以外)は謎解きミステリとして讀まない方が吉でしょう。個人的にはかなりおすすめ。