歌野晶午の最新刊、讀了。
面白かったかと聞かれれば確かにジャケ帶にもある通り、「戦慄的リーダビリティが脳を刺激する超絶エンタテインメント」に仕上がっていて、愉しめたことは愉しめたんですけど……。
「葉桜の季節に君を想うということ」の後でこれっていうのはちょっといただけませんよ。ミステリとしては寧ろ後退している印象さえ受けてしまいます。いや、決してつまらない譯じゃないんですよ。ただ、仕掛けや最後の幕引きも含めて、本作は「今の」 歌野晶午が書くような小説ではないんじゃないかなあ、という氣がするのです。
ちょっと厳しいですかねえ。それでも第4回本格ミステリ大賞を「葉桜」で授賞した作者のこと、讀者のこちらとしてもあの地平を更に上回った作品を期待してしまうのは仕方がないのではないかと思うのですが如何。
主人公はデブなキモオタの真藤数馬で、自分ではビデオ屋にも行くし秋葉原にも行くから引き籠もりじゃないなんて開き直っているんですけど、四十四歳にもなって仕事にも就いていないし同居している親の臑をかじっているダメ人間。
で、物語は、母親にウンザリした数馬が絵夢を連れて家を飛び出していくところから始まります。
家を出て行くときに連れてきた絵夢を彼は妹だといっているのですけど、實際は彼のショルダーバックに入るくらいの大きさの人形で、彼はこの人形と會話なんかしているんですよ。で、この絵夢の言語感覚というのがかなりアレしていまして、語尾に「だぉ」とつけたりしていちいち鬱陶しい。まあ、これも少しばかり讀んでいくと慣れてくるのですが、最初は本當にキツかったですよ。
そんな「ぼく」が絵夢を連れて日暮里の街を歩いていると、黒服の少女から声をかけられます。この女性というのがタイトルにもある「女王様」の来未で、数馬のことをロリコンだのバカだのヴォケだの散々の罵聲を浴びせながらも街中を連れ回すわ、高い食事をさせるわチケットを取らせるわのやりたい放題。
こんな調子で事件らしい事件も起こらず九十頁くらいまで續くものですから、流石に自分も不安になってきたのですが、再び来未と再會した数馬が、来未と同じ小學校のクラスだった友人が殺されたとことを彼女から聞かされるあたりから、物語はようやくミステリらしい展開を見せてきます。
来未の友達がこの後續々と殺されていくのですが、数馬は絵夢と一緒に事件の眞相を突き止めようと奔走します。しかし数馬は當の事件の容疑者として警察に拘留されてしまい、何者かの罠に堕ちたことを知って、……とここからは當に何が現実なのかまったく分からない混沌とした状態で話は進んでいくのですが、まかりなりにも本作はミステリな譯でして、この連續幼女殺人事件をはじめとした總ての謎は最後の謎解きに至って現実の世界に回収されなければいけないじゃないですか。しかし本作ではそれを最後の最後で放り投げてしまうんです。そこが不滿なんですよ。
というのも、作者の筆歴を辿ってみれば代表作のひとつである「ブードゥー・チャイルド」では、幻想的な謎が最後の推理で現実の事象として回収されます(もっとも仕掛けはバレバレでしたけど)。この作品は當にこの點において評価されている譯です。しかし本作の場合、いくつかの幻想的な事象がそのまま放り出されて終わりになってしまうんですよ。「ブードゥー・チャイルド」の作風から見たら、寧ろその點では大きく後退している。そこがちょっと、というか、かなり評価出來ないんですよねえ自分としては。
いや、ほかの新人作家あたりがこういう仕掛けで物語を仕上げるのは全然構わないんですよ。しかし「ブードゥー・チャイルド」を書いてその後「葉桜」で一定の評価を得た後の作品がこれではちょっとねえ、と考えてしまいます。
ただ作中で展開される連續幼女殺人事件の犯人は、手がかりをもとにキチンとした説明がなされます。これはいい。しかしこの事件のメタなところ、つまり物語全体の中で展開されている大きな事件が結局はアレでした、だから奇矯な出來事は總てアレだったんですよでは納得がいきませんよ。
確かに冒頭のプロローグとエピローグである「真藤数馬のうんざりするような現実」「真藤数馬のまぎれもない現実」の二つの世界において「真藤数馬のめくるめく妄想」で展開される物語を挟み込み、最後に大きな反転を見せるという手法は「ドグラ・マグラ」的でもあるんですけど、それでもあまりにベタな仕掛けなので、今の作者がこのようなテを使ってミステリを仕上げることの意義とは何ぞやと考えてしまった譯です。
確かに凄く分かりやすい仕掛けには違いないのだけども、これには小説をたくさん讀んでいる人間ほど不滿を感じるのではないかなと思います(まあ、自分だって自慢出來るほど本は讀んでいないけども)。小説を讀み慣れていない人には、こういう手法は斬新に見えて驚きもあるのでしょう。しかしこれはいうなればあまりに恥ずかしいものであるが故に作家たちが自ら禁じ手としてしまったアレと同じじゃないんですかねえ。
……などと書いていたら、昨日の産経新聞の書評「ミステリー三昧」で北上次郎が本作を「今月のベスト」と書いて凄く評價しているのを見つけてしまいました。以下軽く引用。
優等生的なミステリーなんてつまらない、という人にぴったりなのが、今月のベスト「女王様と私」だ。物語を読むことの驚きと喜びがここにはつまっている。びっくりするぞ、ホント。
しかし困るのは、何を書いてもネタばれになりそうで、この小説の内容を紹介しづらいことだ。さえないオタクが女王様と知り合って振りまわされる話、と書いても、この小説の美点は何も伝わらないから困ってしまう。
要するにそんなのあり?という路線なのである。これだけでは何のことやらわからないが、私は「あり」だと思う。中には怒りだす人もいたりするかもしれないが、私はOKだ。
一定のルールに基づいて伏線も張られているし、それが快感につながるのは、作者の料理の仕方が秀逸だからである。ケッサクは、ルールの中にルールがあることで、まったく新しい。
うーん、……(十分程沈思)。確かに「何でもあり」かもしれませんけど、本作におけるその志は、飛鳥部勝則が「誰のための綾織」で「推理小説に禁じ手などあるのだろうか。おそらく、ありはしない。面白ければそれでいい」と高らかに宣言して、メタとアレ系の融合というミステリ史の中でも高度な達成をして見せたものとは大きく隔たりがあると思うんですけど。
それに「ルールの中のルール」といっても、「ルールの中のルール」からもう一つの上のメタなレベルへと拔けるところで、あまりに陳腐な手法を使っているところが自分は不滿なんですよ。上にも書いたように新人作家がこれをやるのはいいですよ別に。でもねえ、今の作者にこれをやられても感心はしないですよ本當に。繰り返しになってしまいますが。
まあ、それでもプロの評論家がいうのですから、恐らくは向こうの評価の方が正しいのでしょう。プロの書評家ともなれば、作者のデビュー作から全てを讀んでいるに違いなく、これも「ブードゥー・チャイルド」と「葉桜」の二作を通過してきた作者であることを鑑みての評價なのでしょうから。
それともうひとつ、社会派ミステリとして、本作を「殺戮にいたる病」の系譜に属する作品と評価することも出來るのではないでしょうかねえ。ネタも仕掛けも全然違うのですが、今日的なリアリティとミステリ的な手法を取り混ぜた小説という點で二つの物語は繋がっているような氣がします。
まあ大きな不滿はあるものの、とにかく面白い物語であることは事実でして、決して駄作だなどというつもりはありません。「葉桜」や「ブードゥー・チャイルド」の作者である歌野晶午の小説であるということなど考えずに、とにかく物語に乘ってしまった方が斷然愉しめると思います。
ブードゥー・チャイルド / 歌野晶午
■□■ブードゥー・チャイルド / 歌野晶午■□■■今ぼくは第二の人生を送っています。つまりぼくには前世があるのです。ある雨の日の晩にバロン・サムデイがやってきて、おなか…