久しぶりに讀んだ恩田陸の小説。
「ユージニア」と構成の點などについて比較したくなってしまうのですが、よく見れば本作は「ユージニア」とはまったく別の物語でしょう。
実をいうと、本作は語ることが非常に難しい小説でもあります。なので、以下に書いていることは未讀の方にはチンプンカンプンだと思いますが、まあ少しばかりお付きあいください。
まず第一に本作は讀む側の読書遍歴を試される物語であるということです。ヌーヴォーロマンに耐性がないひとにはこの展開は結構辛いのではないか、と思いましたよ。自分も「去年マリエンバートで」は大學時代に讀んだきりだったので、すっかり忘れてしまっていました。なので、引用される文章を讀み返しながら、本作との關連を追いかけていくのは正直かなり疲れました。
頻繁に引用されるロブ=グリエの「去年マリエンバートで」が暗示している通り、本作は記憶を巡る小説でもあるのですが、ユージニアと相違して物語の釀し出す雰圍氣も大きく異なっています。
「ユージニア」の方が何処かとらえどころのないぼんやりとした物語なのに對して、本作はめくるめく記憶とイメージの氾濫が見所。作者の作品らしく、ひとつひとつのイメージは陰影の明確な白昼の景色のように鮮やかでい乍ら、それでいてそれらの記憶や情景を結びつけている核が模糊としているのです。そこが本作の特徴といえるでしょう。
「ユージニア」の場合、物語の中心となる過去の事件ははっきりとしていました。誰が死んで、その死因は何で、という小説内の事実ははっきりと讀者に示されていましたよね。分からないのは、「何故そんな事件が起こったのか」「誰がやったのか」という部分で、このミステリ的な謎が物語を牽引していた譯です。
一方本作の場合、「何が起こったのか」そして「何が起こらなかった」という小説内の事実が非常に不安定であるが故に、「ユージニア」とはまた違った幻想性を釀し出しています。この差は兩作を比較する上で大きな違いだと思うのですが如何。
もう一つの違いは、この物語には聞き手がいないということです。語り手の不在というのもあるのですが、ようく讀んでいけば、それぞの章(変奏)では誰がこの物語を語っているのかは分かります。寧ろ、ここでは聞き手の不在の方に着目すべきでしょう。
「ユージニア」の場合、多くの語り手が存在し、彼らの物語を聞く者(インタビューア)がいた譯です。そして語り手に依る記憶の相違が物語の迷宮をつくりだしていったのですが、本作の場合、そもそも聞き手というものが存在しません、というか、この物語が誰に對して語られているのかが判然としないんですよ。
本作には主題から語り手を違えた六つの物語が存在します。それぞれの物語は一人稱で語られているのですが、プロローグとして提示された主題を変奏していくという構成をとり乍らも、上に書いたように、そもそも聞き手が不在であるために、個々の物語は完全に語り手のなかで閉じてしまっています。
もっとも最後の「第六変奏」に至り個々の物語が共有されることによって、物語の全體像が明らかになるという仕掛けなのですが、この最終章となる「第六変奏」はミステリでいえば、謎解きの部分といえるでしょう。しかしそもそも本作には謎自體が存在しないのですよ。何故なら事件そのものが個々の語り手のなかで閉じてしまっているから。
事件が存在しない以上、謎も存在せず、從って本作はミステリではない、ということになると思うのですが、こんなこといったら恩田ファンに怒られるでしょうか。そもそも本格ミステリー・マスターの一册として刊行されているという事実自體が大きな騙しである譯で。だってこれ、明らかに「本格」ミステリではないですよ。
そうはいってもミステリとしての讀み方も十分に可能なところが本作の不思議なところで、事件の不在性を敢えて無視して、この物語の構成を俯瞰してみると、「第六変奏」によって個々人の事件が共有される瞬間って、ミステリでいう大団圓と同じでしょう。
探偵が提示した物語を皆で共有するという行爲が、ミステリにおける謎解きであり大団圓であると考えれば、本作の「第六変奏」もまたミステリ的な終幕と同じであると見ることもまた可能ですよねえ。
それでも普通のミステリと大きく違うのは、ミステリでは探偵の提示した物語を皆が受け入れることによって物語が閉じるのに對して、本作では、個々人の物語すべてが共鳴ししあってまた新しい物語が生み出されていくところで小説が終わっているところでしょうか。勿論ここでいう新しい物語っていうのは、讀者の我々がこの物語のなかから想起し得る「讀み方」である譯ですが。
敢えてここで「讀み方」といって「解釈」とか「推理」とかいいたくないのは、この小説の物語が讀者に對して開かれているものであるからで、ミステリ的にいう「推理を讀者に委ねる」とかいうものとは少しばかり、というかかなり異なっているからです。まあ、このあたりは「ユージニア」にも通じるところがある譯ですが、この方向性が本作ではいっそう明確になっています。
「ユージニア」はある意味、毒入りチョコレート系のミステリとして讀むことも可能だったと思うのですよ。しかし本作の場合、そもそも事件の不在というのがあって、物語の核に事件が存在しない為、そこから語り手が斷片的な事実に樣々な角度から光りを照射して眞相を明らかにしていく、……というような毒入りチョコレート系の讀み方は出來ない譯ですよ。
じゃあどういうふうに讀むのがいいのか、と頭を抱えてしまうのですが、思うに本作は「第六変奏」に倣って、讀者の我々で個々人それぞれの物語を共有すべき小説だと思うのですよ。まあ、こうしてブログで一人語りしているような自分がいうのも何なんですが、掲示板あたりで皆が自分の物語(記憶)を語りながら大いに盛り上がるべき小説だと思います。
もっともこういうコ難しいことを拔きにして、自分の読書遍歴から本作を簡單に纏めてみると、例えば山田正紀の「サイコトパス」に近い雰圍氣、とかいうことも出來るだろうし、小説内の事実が反転を繰り返していくような展開が連城三紀彦の小説のよう、ということも出來ます。
全体を覆っている漠とした雰圍氣は戸川昌子の小説に通じるとこもあるように思うし、……というかんじで、讀者が各の読書遍歴を辿り乍ら讀み進めていき、「第六変奏」が終わったところで、自分もこの館に集った一人になりきって自分の物語を語ってみる、……なんていうのはどうでしょう。これが讀む側の読書遍歴が試されると冒頭で述べた理由であります。
取り敢えず本格ミステリ原理主義のひとは讀まない方が吉。その一方で幻想小説、幻想ミステリに焦がれる御仁にとって本作は忘れられない大切な作品となるでしょう。「ユージニア」よりその毒は強いと思います。勿論自分は愉しめました。