以前讀んだ「D‐ブリッジ・テープ」に繼いで二作目となる本作ですけど、「D‐ブリッジ・テープ」を讀んだ時に、この作者の本質はグロじゃなくて、乙一にも通じる悲哀、郷愁、悲壯感にあるのではないかと思っていたのですが、この讀みは間違っていなかったようです。
本作は處女作と同樣、角川ホラー文庫からリリースされたものですけど、全然ホラーじゃないです。大石圭の「アンダー・ユア・ベッド」もそうですけど、全然ホラーじゃない、でも刮目すべき傑作が隱れていたりするから角川ホラー文庫は侮れません。
ジャケ裏にあらすじが書いてあるんですけど、精確ではありません。本作、物語の構成がいかにも拙いかんじがするのですが、もしかしたらこれも作者の計算かもしれないので何ともいえません。という譯でこれから本作に取りかかろうという方へ簡單に物語の展開を説明しておこうと思います。
ちなみにジャケ裏のあらすじは以下の通り。
原子炉の爆発がきっかけで、双子の姉妹・華織と紗織は別々の家に預けられた。しかし失意の華織は自殺の名所とも呼ばれる放射能汚染地域へと自ら踏み込んでしまう。立入禁止の汚染地域で生き長らえる華織、非汚染地域で暮らす紗織、互いに相手を強く求めながらも、決して満たされることのない日々は、ついに意外な結末を迎えた…。
これを見ると、話は華織と紗織の對比で物語が展開していくように思うのですが違います。まず八十頁あたりまで、物語の世界がいっさい説明されないまま話が進むんですよ。
「それから、私たちは二人だけで暮らしている」という、冒頭の唐突な語りから續く前半はさながら一人語りの詩のようでして、それでも咲子、祐子といった登場人物たちとの簡單な會話から、この語り手の名前が和也であることが分かります。
續いて一線で區切られたところで、ありきたりの都會の日常の描写がさながらカットバックのようなかたちで語られるのですが、このシーンの時間軸、そして冒頭の和也の語りとの関連はまったく見えてきません。
そのまま物語は和也を語り手とするパートにおいて、世紀末めいたところで命のやりとりをしながら生活している彼らの日常が描かれていきます。
やがて線で區切られたパートの語り手が華織であることが明らかとなり、これがあらすじで述べられている主要登場人物のひとりであることが了解されます。しかし彼女と和也のパートの連關は未だ見えてきません。
このまま凄慘な和也の語りが淡々と續き、やがて彼らが住んでいる世界はハーフムーンと呼ばれる被曝地帶であること、そしてここには以前原子力発電所の施設があったことが明かされます。
華織のこれまた淡々とした都會の日常生活の描写と、和也の凄慘な生活の場面の對比が、物語の全体に漂っている靜謐にして悲壯な雰圍氣を高めているところは、作者が「D‐ブリッジ・テープ」で用いた手法と同じです。
実をいうと、この前半、物語の世界が明かされるまでの和也を語りとする場面は些か冗長なんですよねえ。物語の背景も分からないまま、まったく宙づりのままでこの和也の語りに付き合わなければならないので、ちょっと飽きてしまう讀者もいるかもしれません、というか、実は自分はそうだったですよ。
ただ、これも今になって讀み返してみると、後半、ある事実が明らかにされたあとの展開をいっそう盛り上げるための伏線だったと氣がつく譯ですが、もしこの場面が冗長に感じられるのであれば、八十頁あたりまではざっと斜め讀みしてしまってもいいと思います。このあと、原子力施設の事故のことが明かされ、華織の独白で、物語は過去への回想へと向かいます。
ここで和也と華織との間にある關係が提示されるのですが、ここでようやく物語の全てが見えてくるという趣向なんですが、……ちょっとここに至るまでが長過ぎますよねえ。
それでも被曝したあとの華織と沙織の辛い過去はかなり讀ませます。ここには「D‐ブリッジ・テープ」に見られたようなグロテスクでショッキングなシーンはありません(あ、ひとつだけあった)。
寧ろ、逸話を積み重ねることによって、華織と沙織の間に蟠る齟齬、そして被曝という悲劇に幸せだった二人の運命がもろくも崩れ去ってしまうという悲壯な運命を際だたせています。このあたりはホラーとかエンターテイメントというよりは、純文學系のやりかたに近いでしょうかねえ。
そして後半、和也たちのグループのひとりがハーフムーンの外で企てようとした出來事が引き金となって彼らの共同體に軋みが生じ、悲劇的な結末へとなだれ込んでいく、と。
それと同時に、沙織と華織が再び邂逅するのですが、作者の鬼畜な風格が爆発するのはここから。普通は二人が出会ってめでたしめでたしという終幕になる筈なんですが、やはりそこは「D‐ブリッジ・テープ」の作者でした。何ともやるせない結末が用意されていましたよ。これは辛い、というか酷い。
そしてエピローグで語られるハーフムーンのその後。登場人物たちの棲む異世界が崩壞し、日常を取り戻していくことで、物語が終わるというところはこれまた處女作と同じなのですが、郷愁を誘う寂しげな結末がこちらのほうが上でしょうか。
乙一のような洗練されたところがないのですが、登場人物たちの叫びを抑えた筆致で淡々と描くあたりが作者の風格。しかしこれは何というか、遅れてきたアメリカン・ニューシネマといったかんじでしょうか。
かなり讀者を選ぶ小説ですが、角川の「まったく斬新な表現方法で描いたホラーワールド」というウリ文句は如何なものか。なかなか形容が難しいのですが「おそるべき子供たち」をアメリカン・ニューシネマの手法で仕上げた長編詩とでもいったらいいでしょうかねえ。それでもこの全体に漂う悲壯感と讀後の何ともいえない郷愁は獨特です。もっとも處女作と同じように「何でそれで死なないんだよ!」というツッコミを入れたいところは多々あるのですが、まあそこはそれ。
「D‐ブリッジ・テープ」のようなイヤ感はないので、安心して讀み進めることが出來ます。ただ前半はやや淡々と物語が進むので、それが辛ければ上に挙げたような讀み方でそこを乘り切っていただければ、後はこのハーフムーンで展開される悲壯な世界にどっぷりと浸かっていただけると思います。
「孤独な魂」とか「魂の叫び」とかそういう惹句に痺れてしまう御仁におすすめしたい小説、というより長編詩であります。間違ってもホラーではありませんので、誤解のなきよう。