傑作。アマゾンのあらすじ紹介にはコロシのコの字もなく、その一方で謎の美女が登場、みたいなフリもあったりして、今回ばかりは本格ミステリというよりは、舞台も外国だし、国際サスペンスみたいなヤツ? というふうに感じてしまったりするわけですが、ご心配なく。紛う事なき現代本格の超逸品でありました。
……とはいいつつ、物語の大部分は本格ミステリ「らしくない」展開ゆえ、「おいおい、外国が舞台だっていうのに、怪しい舘もねーし、天才探偵とボンクラワトソンのコンビもいねーし、幽霊も出てこねーし、死体がブワーッと宙を舞ったりもしねーし、全然本格じゃねージャン」と不満を感じてしまう原理主義者の御仁もまたいるかと推察されるものの、本作では、まず本格ミステリらしくない構成が本格ミステリとしてのキモであるところに注目でしょう。
物語は、世界的テノールのモテモテ・ボーイが婚約者と一緒に、オンボロ・アパートに住んでいる怪しげな占い師に自分たちの運命を見てもらうところから始まります。で、その怪しい占い師曰く、モテモテ君に対しては「あんたの成功を妬むやつが、山ほどでてくっぺな」などといい、「それからあんたは、恐れを知ることになる」と不気味な予言を開陳。しかし、ボーイの方はまだマシな方で、婚約者の彼女に対しては「あんたは、幸せの絶頂で命を落とすことになっぺな」と非情にも死の宣告。
それからしばらくして、ボーイの方はジークフリートという大役を射止め、凡庸な婚約者もどうにか舞台の端役をゲットできたものの、占い師の予言通りに列車事故でご臨終。ボーイは彼女の骨を持って舞台へとあがる決意をするのだが、……という話。
あるものが予言か、はたまた操りを行っていたという『花窗玻璃』の趣向は本作にも継承されてい、作中で探偵が『指環』のある謎についてひとつの解釈を明示してみせるのですが、ここではあるものの操りがほのめかされいます。また予言という視点からは、主人公のボーイと婚約者の運命が占い師の口から語られるという、これまた非常に明快なかたちで示されている親切設計が『花窗玻璃』との大きな違いといえるかもしれません。
最後の最後まで、まったく事件らしい事件が起こらず、モテモテボーイが堅物女をナンパして落とそうとしたり、オペラ歌手の白人女と懇ろになったりするシーンも交えて、舞台の開幕が近づいていくという展開は、まったく本格ミステリらしくありません。しかし、いよいよある評論家が『指環』中、最大の見せ場というシーンが始まる直前、探偵の口からある「事件」が語られ、そこではじめて、犯人の手によって完全に隠蔽されていた「犯罪」が明らかにされ、同時にその謎解きがなされるという結構は、まず謎を提示し高度な論理を駆使した謎解きによって真相が解き明かされるという、――本格ミステリでは定番のフォーマットからは完全に逸脱しています。
しかしこれを、本格ミステリ的な結構を忌避したもの、あるいは本格ミステリ的要素を排除したボンクラ作品と批判するのはマッタクの早とちりでありまして、そこは最高に知的で最高にイジワルな本格ミステリ作家である深水氏のこと、そんな簡単なお話で終わる筈がありません。
今回も、『エコパリ』や『花窗玻璃』同様、芸術論が掲載されているので、それをヒントに物語を辿っていくと、本格ミステリらしくない物語の結構の背後に隠された真の物語が見えてくるところが何よりも素晴らしい。というわけで、以下は可能な限りネタバレを避けつつ、評論家や探偵の口から語られる内容を元に、「夢見る権利」を行使して本作を読み解いていこうと思います。なお、自分はオペラとか『指環』とかはマッタク判らないボンクラなので、そのあたりの知識はネットでチョチョイと調べただけの完全に付け焼き刃的なものゆえ、ご容赦を。
さて、53pから、過去上演された『指環』のことが、評論家の言葉として説明されているのですが、ここでは59pに傍点つきで語られている以下の部分に注目でしょう。ちなみにこの前には、サンクレート・ドルストの奇天烈な演出について、その「新しさ」は評価しつつも、「苦痛に見合うだけの新しさは、得られていないというのが筆者の感想である」と述べ、さらに、
もっと二つの世界が緊密にリンクして、現代社会と楽劇の筋が相互補完的に進行していき、舞台でもう一つの別の物語が見られたならば、さぞかし面白かっただろうに!(ゴシック体は作中では傍点)
ここにいう「現代社会」と「楽劇」が本作では何を暗示しているのか、……というあたりが非常に興味深いわけですが、少なくとも「現代」的な景色と、「楽劇」を象徴とする景色が「相互補完的に進行する」ことで、「もう一つの別の物語」が立ち現れる、――傍点で強調されている以上、本作にもまたこうした結構が隠されてい、読者には相互補完によって完成された「もう一つの別の物語」を読み取ってもらうことが期待されている、……と考えることも可能でしょう。
こうした読みを意識しながら、登場人物配置に目をやるとなかなか面白いことが見えてきます。例えばジークフリートはその役を舞台で演じる主人公であることは勿論なのですが、個人的には、物語の中盤で主人公がナンパを試みる佳子に注目でしょう。彼女は国境なき医師団のメンバーで、パーティーの席上、ボーイはしきりにアプローチを試みるも、ツンツンした彼女の態度にあえなく玉砕と相成ります。
ところで、『指環』の主要登場人物には、ブリュンヒルデというのがいて、wikiに曰く彼女は「戦死した兵士をオーディンの住むヴァルハラへと導く戦女神ワルキューレの一人として描かれており、彼女が登場する作品の中でも最も神秘的な存在」で、ジークフリートは「鎧に身を包んだ人間を発見」し、その人こそは「オーディンの命で眠らされたブリュンヒルデだった」という筋書きとのこと。
「戦死した兵士」「戦女神」というあたりから「国境なき医師団」を想起するのは容易だし、パーティーの席上のツンツンした彼女の態度が「鎧に身を包んだ」フウであったと形容するのもまた可能でしょう。佳子が『指環』のブリュンヒルデだとすると、その後の物語の展開との照応も見えてきます。そして、217pで評論家が「この大作一番のハイライト・シーン」として挙げているのが本作のラスト・シーンとなっているところから、本作は『指環』という「歌劇」と「現代社会」である主人公のパートが、「相互補完的に進行してい」き、本格ミステリとしての「もう一つの別の物語」が立ち現れるという構成であることが判ります。
すなわち、本格ミステリとしての「謎―論理」という結構の物語は「もう一つの別の物語」として隠されている。さらに秀逸なのは、そうした「もう一つの別の物語」としての「本格ミステリ」の物語を、「現代社会」の象徴とされる主人公の視点から描かれた物語の背後に隠蔽した結構の必然性についても、
だが現実の世界の事件のほとんどは、そういうものなのかも知れない。派手に事件が起こり犯人と警察あるいは探偵との間で壮絶な知恵比べが展開され……なんてのはほんの一部あるいは推理小説の中だけの話で、現実の事件のほとんどは誰も知らないところで行われ、巧妙に隠蔽され、そのまま闇に葬られるか、あるいは一気に明るみに出るのだろう。何故なら完全犯罪とは、警察の未解決ファイルの中にあるのではなく、それが犯罪であるとは、犯人以外は誰も知らないもののことを言うのだから(250p)。
と述べ、本作に、本格ミステリの「定型」とは異なる質感を持たせています。ここでは、「現実の世界」という言葉によって、「現代社会」というリアリズムが「推理小説」と対置されているわけですが、だとすれば、ここにいう推理小説を、上に引用した評論家の言葉、――「現代社会」と対置された「歌劇」――これをさらに推し進めて「芸術」と捉えることも可能でしょう。
こうしたところから、主人公の語りに目をやると、興味深いのは以下の内的独白でありまして、以下、若干長くなりますが引用しておきます。
そうなのだ、芸術を隠れ蓑にして≪世界≫の外側に立っているつもりでいるのは間違いなのだ。芸術至上主義が長続きしたためしのないことは、歴史が教えてくれている。高山植物は一見孤高で美しく見えるが、実は下界での激しい生存競争に敗れて、養分の少ない高地へと逃げ込んで来たものである。それと同じことで、≪世界≫と向き合い、≪世界≫と格闘し、≪世界≫から養分を吸い上げることのない芸術は、その純度の高さによってほんの短い間輝きを放つことをあっても、大輪の花を咲かせるのは難しい。やがて少しずつ衰弱していくことは、免れ得ないことだろう。
そしてそれはその芸術家自身をも、いろんな形で蝕んでいくことだろう。俺が陥りかけていた罠が正にそこにある。芸術とは、一年じゅう朝から晩までそれに涵っている人間には、一種の自家中毒を起こさせるものであり、諸刃の剣のように危険なものだ(177p)。
「世界」を「現代社会」に、そしてここにいう「芸術」を「本格ミステリ」『推理小説」などという言葉に置き換えてみると、同時に現代の本格ミステリの状況に対する批評にもなっているように読めてくるのではないでしょうか。同時に、本作を「派手に事件が起こり犯人と警察あるいは探偵との間で壮絶な知恵比べが展開され」る本格ミステリらしくないという本作の構成、風格そのものが、「一種の自家中毒」に陥りつつある現代本格の状況から脱しようとした作品であると見ることもできると思うのですが、いかがでしょう。
もうひとつ、これについて付け加えおくと、本作において、「事件」は「表」と「裏」の二つに分けられ、「現代社会」の象徴である舞台(裏)で起こっている「表」の事件がまた、読者に「裏」の事件を気取らせない結構になっているところも秀逸です。
いよいよ本作の背後に隠されていた「本格ミステリ」の物語が明らかにされ、『指環』における「一番のハイライト・シーン」となるのですが、ここでタイトルに象徴される「ジークフリートの剣」が明らかにされる幕引きは超感動的。しかしこの感動は、裏に隠されていた「もう一つの別の物語」である本格ミステリとしての物語が明かされたからこそ、その悲劇性が増し、主人公の内心の劇的な変化を呼び起こしたという構成にも着目すべきでしょう。すなわち、本作は本格ミステリであるからこそ、感動的な物語として完結したのだ、と――。
そしてこの「ジークフリートの剣」に絡めてもう一点指摘しておきたいのは、「不可逆性」ということでありまして、この点も引用しておくと、
この不可逆性こそ音楽の本質だ――和行はそのとき突然そう思い当たった。そしてこの本質の故に俺は音楽を愛し、思索を忌み嫌うのだろう。人間の心は、常にめまぐるしく変わって行く。……つまりあらゆる思弁は可逆的で、果てもなければ埒もなく、それゆえ本質的に不可逆的な音楽とは、相容れないものなのだ……(260p)。
繰り返しになりますが、ここにいう「音楽」が芸術であるとすれば、「思索」はロジックででは勘ぐることも可能な気もしてきます。だとすると、「音楽」と「思索」を交合させた本格ミステリとはいかなるものなのか……このあたりにも作者の本格ミステリ観が見えてくるところも興味深い。さらにはこの「不可逆」という言葉に象徴される現象が最後の奇蹟としてどのように立ち現れるのか、『苦境の子』に暗示されるある人物は果たしてどのような結末を迎えたのか、……「現代社会」と「楽劇」はこの奇蹟によって見事に補完しあい、ひとつの壮大な物語として完結します。
さらにシツコイくらいにつけくわえると、この奇蹟についても本格ミステリ的な思索が繰り出され、しかしその思索はまた最後の一ページにおいて、主人公の内心の劇的な変化とともに、再び芸術の意匠を纏って予言の成就とともに幕となります。このラスト数ページの構成の素晴らしさ……まさに本格ミステリでありながら、本格ミステリを超えた傑作といえるのではないでしょうか。
というわけで、『花窗玻璃』の風格を継承しつつ、非本格ミステリ的な結構を本格ミステリ的な趣向によって達成したという逸品で、まさに今年のマスト、ともいえる一冊です。超オススメ、でしょう。