傑作。直木賞狙いと指摘されることを宿命づけられた一作ながら、最近の候補作とは明らかに異なる構築方法を試みた、――「本格ミステリ」としても愉しめる一編で、堪能しました。
物語は、小学生のボーイたちがヤドカミ様なる禁じられた遊びに目覚めて、小さな願い事をするうち、やがてそれが現実となりはじめ、――という骨格に、主人公の母親の不貞や、娘っ子との淡い恋心、そして両家族にまつわる過去の傷を絡めて展開されていきます。
まず何より小学生のボーイの視点で物語を追いかけていきながらも、子供っぽさは微塵もない、どこか冷たささえ感じさせる地の文の描写が素晴らしい。地の文で主人公の眼を通して事件や謎を追いかけていく、――というふうに主人公の視点に読者の意識を固定させ、そこへ絶妙な誤導を仕掛けるというのは、『ラットマン』を頂点とした道尾ミステリならではのテクニックでありますが、本作においても中盤、フェイクのかたちながらこの技巧を用いて、主人公がある人物を見、そしてその見られる側の意識を主人公が忖度するという二重の視点を構築しているところが秀逸です。
『ラットマン』と同様の技巧を用いながらも、それと同様の路線を採用した『龍神の雨』と異なるのは、本作ではあえて「事件」という、――「ミステリ」をにおいのする端緒を前面に押し出すことなく、母親の不貞といった日常的な出来事を描き出しているところでありまして、たとえば『球体』のように事件を描きつつもあえて道尾ミステリ的な技巧を除けて事件の結構を構築しようとした作品とは異なり、ミステリ的な素材を退け、一般小説的な流れの中に道尾ミステリならではの技巧を導入したところが新機軸。
『球体』にも見られた覗き趣味を、道尾ミステリならではの誤導に活かした技法も素晴らしく、中盤、母親の不貞を疑うボーイが車に乗り込みその証拠を探そうとするシーン(203p)は秀逸。上にも述べたように、主人公は小学生でありながら、それをどこか醒めた眼で眺めているような地の文との対比が本作の見所で、このシーンにおいても、
……首を伸ばし、シートに鼻先を近づけてみる。二つの匂いが、同時に感じられた。一つは明らかに純江の髮の匂い。家の布団にも枕にも染み込んでいる匂い。……
ボンクラ作家であれば、ここは主人公の感情に浸りすぎたり、あるいはビビって「母の髮の匂い」と平凡に流してしまうところを、あえて「純江」と母の名前で描写するあたりに、自分などは道尾氏の凄みを感じてしまうわけですが、これとは対照的に妻と不倫関係にあるとおぼしき男性については、地の文にもかかわらずその名を挙げることなく「鳴海の父親」として、自分の友人である娘っ子の父親でしかない……言い換えれば、その娘っ子の眼を通してしか、その男性を主人公は見ていないということを仄めかす対比もいい。
さらにこの地の文で母ではなく純江としているところが、最後の最後、これまたミステリらしい衝撃的な出来事が爆発した瞬間、主人公の叫びに託して大きな変化を見せるという盛り上げ方もいうことなし。
母親の不貞という軸のほか、本作では主人公のボーイに送りつけられてくる奇妙な手紙という「謎」があるのですが、母親と友達である鳴海の家族との関係にまつわるもろもろのことに比較すると、その扱いはむしろ控えめ。
「ミステリ」らしく見えてしまう「謎」を敢えて後景に退かせた結構に、これまた外野は直木賞狙いなんて難癖をつけるカモ、などと妙なことを考えてしまうものの(苦笑)、こちらにはヤドカミ様の奇妙な儀式も絡めて、「探偵」という役割を隱蔽した現代本格らしい操りの趣向が活かされているゆえ、本格ミステリ読みであればこちらの軸にも注目でしょう。
……と、おそらくはミステリらしさを徹底的に脱色させることを企図して書かれた一作ながら、本格ミステリ読みが読めば、従来の道尾ミステリの風格を存分に感じることのできる逸品で、ミステリの技巧を取り除くことでミステリらしさを脱色させようと試みた『球体』とはまったく異なるアプローチで書かれた本作は、そうした技巧の人工性が感じられないという点ではこれまた『シャドウ』や『ラットマン』などとも大きく異なる一作です。
本格ミステリ読み的には、そうした人工性から「透かし見える」「あからさま」技巧を愉しみながら読み進めていくのが常道ながら、本作では、ミステリらしさを引き寄せてしまう謎を見えない構図のさらに奧へと後退させ、さらには事件という、――ミステリへと直結してしまうドラマを取り除いた上で、自然主義的な物語をまず構築し、そこへ道尾ミステリ的な技法を導入したという点で、脱ミステリ宣言以降の氏の作品の中では、本作こそまさに新境地、といえる快作に仕上がっています。
『球体の蛇』と『光媒の花』の「らしくない」ところが嫌で道尾作品から離れたという読者も、その二作とはまったく異なるアプローチを採ることで、普通小説的でありながらきわめて本格ミステリらしい本作は、『龍神』とも異なる『ラットマン』の系譜に連なる一作として愉しむことができるのではないでしょうか。オススメ、でしょう。