台湾皇冠から刊行された「サクリファイス」(台湾でのタイトルは「犠牲」)ですが、張國立が名家推薦として「不平凡的兎子」という題名の文章を寄せています。この中で氏は「サクリファイス」におけるチカの姿と重ねるかたちで「不平凡的一英里賽」という小説のあらすじを述べているのですが、氏自身の記憶が曖昧で、この「不平凡的一英里賽」が収録されているとおぼしき本のタイトルが不明、どうやら本の名前は「王子」、その中に「不平凡的一英里賽」という一篇が収録されているとのことです。以下に氏の文章をざっと日本語にしてみたので、もし「王子」かあるいは「不平凡的一英里賽」という一篇の日本語タイトルが判る人がいらっしゃればご教示いただきたく、――というエントリです。本当はtwitterの方に載せようかと思ったのですが、ちょっと日本語が長くなってしまったので、こちらの方に置いてみた次第です。あくまで暫定的なものなので、しばらくしたらこのエントリは消すカモしれません。
不平凡的兎子張國立スポーツに夢中だった小学生のあのころ。中学生や高校生向けの読み物がたくさんあって、毎月そうした本が書店に並ぶのを愉しみにしていたわたしは、物語を読むことでその渇きを癒していた。そしてそうした読書には言葉にはできない興奮があった。
確か『王子』というタイトルだったと思うのだけれど、その一冊に「不平凡的一英里賽」という一篇が収録されていた。とても印象的な話で、今でもはっきり覚えている。
あらすじはというと、一マイルの中距離走が行われるのだが、それぞれのチームには主将と副将がいる。前者はチームの中でもっとも成績の良い選手で、一方の後者は主将のペース配分の役割を負うことになる。
主将が良い成績を収めることができるようにサポートするため、副将はときに自分の力以上ものを出して走らなければならない。また途中で競技を退くことだってある。
そして、その日の競技。副将は監督から先頭を切って走るよう指示を受ける。一キロに達したとき、彼の両足はもうくたくたで、これ以上走ることはほとんど無理という状況だった。しかし何ということだろう、ふと後ろを振り返ると、主将の姿が見えないのだ。いったいどうしたというのだろう?
主将は怪我をして、棄権してしまったのだ。
このとき、副将には二つの選択肢があった。ひとつは彼を責めるものなどいないのだから、予定通りに引き上げればいい。彼はそこで仕事を終える。
もうひとつは、そのまま走り続けることだ。ラスト・スパートで力尽きようとも他の選手を出し抜くことができるかもしれない。
そして、副将は走り続けた。照りつける日射しは容赦なく汗を奪っていく。足はまるで鉛のように重い。世界はぼんやりとし、いつ倒れてもおかしくなかった。
しかし副将は最後まで走りきり、優勝する。
さながらドッグ・レースで犬たちを引きつけ、けしかけるために駆り出されるウサギのように、速い選手をサポートすることで「ウサギ」と呼ばれ続けた彼ら――。彼らは他の選手と同じくらい努力するだけではない。最後には優勝の栄冠を主将に譲らなければならないのだ。
レースにおいては所詮、「ウサギ」はずっと脇役に過ぎないのだろうか。
彼らはくじけることなく、自らを犠牲にして経験を重ねていく。そして絶え間ない努力によって実力をつけていき、いつかは主将のミスによって自分が勝利を引き寄せるチャンスを待ち続ける。
神はたゆまぬ努力を続ける者を決しておろそかにすることはない。
小説の中のチカは「ウサギ」だ。チームが逆風に会えば、彼は前に出てその風を受けとめ、主将が体力を消耗するのを防がなければならない。主将のバイクが故障すれば、自からのものを彼に譲り、自分はレースをおりなければならない。主将の地位を脅かすようなことがあれば殺されるかもしれないのに、それでもチカはそれを運命としてあきらめることは決してない。彼は「ウサギ」を演じ、それに命を捧げることを愛する。そして静かにチャンスを待ち続けるのだ。
レースは人生そのものを表している。わたしたちは常に大きなチームの中の「ウサギ」で、他人よりも多くの努力を注ぎながらも二番手に甘んじる。しかし、そこで不平不満をわめき立て、神様は自分のことなど見てくれちゃいないとすっかり自暴自棄になって、初心を忘れてしまっていいものだろうか?
いや、凡人であればまずはひたすら真面目に努力だ。そうではないか?
二番手、あるいは「ウサギ」であれば、チャンスをものにすることできる。そしてひとたびその機会が巡ってくれば、誰よりもうまく、そして遠くへと行くことができるのだから。
本作はただの自転車小説ではない。
これは犠牲の小説でもあり、犠牲は必ず報われることを我々に示唆する物語でもある。
私たちはしっかりとウサギの役を演じればいい。いつかきっとチャンスはやってくるのだから。