そのあらすじ紹介から、大方はミステリではなく普通小説として読むのではないかと思われる本作、確かに本格としての技巧という点では従来比では緩く、リッチだけどちょっとダメ人間入ってる主人公の惑いと決意、――といった心の動きを堪能するのが吉、という一冊ながら、門井氏らしい落ち着いた筆致で描かれる物語として自分は愉しみました。ただ、ある謎に関してはある人間にとっては秒殺ともいえるイージーさなので、このあたりで評価が分かれるかもしれません。このあたりは後述します。
物語は、祖父と父親といった有名画家の血を継承しながらも、それを重圧に感じる主人公はあえて画壇への道を選ばす、商売として絵を描くことを決意。やがてヒョンなことから一人の女性の飼い犬を描くことになり、また変わり種の犬を育てているブリーダーと知り合うことになるも、ある受難に襲われて人生暗転、……という話。
あらすじに目を通すと、ブリーダーが育てている犬の不思議が謎の焦点になっていくような物語かと勘違いしてしまうのですが、この不思議な犬の謎については前半にブリーダーのクチからあっさりとそのネタが明らかにされます。しかしその真相がまた主人公の血への執着をさらに強めることにもなったりするあたりの展開は期待通りながら、リーマン生活で必死こいて糊口をしのいでいるボンクラとしては、恵まれている主人公のモラトリアムぶりに「もう三十路を過ぎた大人なんだからシッカリせいよ。こらッ」と突っ込みを入れたくなってしまうところはちょっとアレ。
しかしこの主人公が怪しいブリーダーの話に乗っかったばかりにトンデモない受難に巻き込まれてしまうのが中盤以降の展開で、ここからは丹念に主人公の惑いと挫折が描かれていきます。ミステリとしては、絵の依頼を受けて自信満々に描いてみせたブツにダメだしをされてしまうまでの経緯が興味深く、特にこの依頼主のある奇妙な行動から彼女の心の悲しみを解き明かしていく手さばきが秀逸です。いったんはある人物の発言からその心を透かし見せたような謎解きのあとに、主人公が本丸の真相を明かしてみせると結構も素敵で、門井ミステリならではのスマートなロジックを堪能できます。
とはいえ中盤以降、主人公を襲う受難が本作の中心軸で、最後の方でようやくこの受難の原因ともなる経路が謎として読者に提示されるのですが、……犬好きでこれについて知悉しているものであれば、主人公を襲うこの受難についてはその経路は明らかで、彼はマッタク安全安心であることが明々白々ゆえ、むしろ前半で彼に感じていたもどかしさと鈍感さにこれまた「おいおい。アンタは大丈夫なんだってば!」と突っ込みを入れたくなってしまいます。
この主人公の心の動きについてちょっと納得出来ないのは、最後にある手紙を「遺し」てある決意をもってある行動を起こすのですが、この手紙を真相開示ではなくある行為のアリバイとして機能させているところでありまして、……「え? ということはアンタ、本気でまだ自分のことヤバいと思ってるの?!」とここでもまた呆れてしまいつつも、最後はシッカリと美しい幕引きを用意してくれたのは一安心、――とはいいながら、この手紙をアリバイではなくあくまでミステリ的な真相開示とし、その後の彼の行動については未来への強い決意を表したものとして、頭ン中で物語を勝手に改編させて読んでしまったのは内緒です。
門井ワールドといえば、その衒学が魅力のひとつと感じているファンは多いのでは、と推察されつつも、本作ではそうした部分は控えめで、全編これ主人公の心の動きを丁寧に追いかけていくという物語ゆえ、ある意味、門井氏の新境地の一冊といえるのカモしれません。
犬好きの方には、何よりも主人公の受難の曰くとそれに伴う謎が明々白々ゆえ、彼の鈍感さにもどかしさを感じてしまうものの、門井小説ならではの品格と登場人物たちを見つめるやさしい眼差しは健在、という佳作といえるのではないでしょうか。