知的でイジワルな本格ミステリ作家、深水氏の最新作。まず講談社ノベルズではなく、創元推理からのリリースということに驚いてしまったのですけれど、そうしたレーベルの違いは作風にどう反映されているのかというと、……まず結論から言ってしまえば、タイトルに「リチェルカーレ」とある通り、芸術を構図に絡めた風格を継承しながらも、騙しの技巧はどちらかというと「ウルチモ・トルッコ」に近いです。
とはいえ「ウルチモ」のようなバカミスではありません。「花窗玻璃」のような構図の組み方に「ウルチモ」の仕掛けを凝らした逸品で、全体の構図を読み解くのに二度読みが必須という点でも現代本格マニアの期待を決して裏切らない上質な仕上がりに、個人的にには大満足。
あらすじによると「「生きていたから殺した」という謎の言葉。被害者は誰でも良かったという無差別殺人の告白なのか、それとも――。少年は何故、そして誰を殺したのか」とある通りに、あからさまなかたちで呈示される謎は「生きていたから殺した」という言葉の真意と、「誰を殺したのか」という「フーダニット」になるわけですが、勿論そこはイジワル作家深水氏のことでありますから、これとはまったく別のところに大仕掛けを凝らしてあります。
個人的には、この隠された大仕掛けに関していえば、初読時に二者択一の視点から読み解いていったことと、現代本格の定番としてはまずこうなるだろう、というところから予想は出來たものの、最後にこの予想通りの真相が明かされた瞬間、「どこから、どうやってこうなったのか」というところを考えるに頭が真っ白になってしまいました。で、あらためて付箋を貼りまくりながら再読してようやくこの仕掛けに凝らされた繊細な技巧に気がつく、――という風格ゆえ、「キチンとコロシが起こって、探偵が登場して、推理をして、真相が明らかにされる」という黄金期からの本格ミステリのコードを踏襲した結構ではないとはいえ、再読はマストでしょう。
さて、深水ミステリといえば、芸術の蘊蓄というフウにその衒学の側面ばかりがいたずらに強調されてはいるものの、これは「花窗玻璃」の時にも述べた通り、深水ミステリといえば、そうした芸術の主題が構図にどう絡んでいるのかがキモなわけで、そうした視点から本作を読み解く上でまず着目するべきは、タイトルにもなっている「リチェルカーレ」という言葉と、作中でも繰り返し語られる「擬態」というキーワード。
「リチェルカーレ」という音楽用語と「擬態」という言葉の共通項については、これまた微妙にネタバレになりそうなので敢えて引用は割愛しますが、本文107頁あたりからかなり詳しく語られています。
個人的にはここで語られる「謎のカノン」についての話が興味深く、「楽譜から読み取れることにも限界がある」「曲を< 解決>に導かなければならない」など、さらりと語りながら「推理」という言葉も交えたりしつつ、カノンと本格ミステリとの連関を仄めかしたくだりにはシャガールのステンドグラスによって本格ミステリの姿を暗示してみせた深水氏らしい遊び心が感じられます。
さて、本作では、事件が発生する過去のシーンを冒頭に置くという中町ミステリ風のプロローグから始まり、その後、事件の犯人である少年からこの「事件」の「探偵」(この「物語」の「探偵」ではありません。これについては後述します)が話を訊きながら、少年の心の闇に迫りつつ、事件の真相を解き明かしていく、――という構成になっています。この「事件の探偵」視点という事件「後」のシーンと、冒頭のプロローグへと向かっていく「過去」に少年の視点とを重ねた結構が本作の大きな特色でもある譯ですが、ただ単に二つのシーンを重ねたというだけではなく、ここにも「リチェルカーレ」という言葉によって本作の趣向に縛りを設けているところが素晴らしい。
タイトルになっている「五声のリチェルカーレ」は、バッハの「六声のリチェルカーレ」から引用したものであることが作中でも仄めかされているのですが、この曲が収録されている『音楽の捧げもの』について簡単に引用しておくと、
そもそもこの曲集が何故『音楽の捧げもの』と呼ばれているかというと、……王が与えてくれた旋律を主題にして、バッハが即席で作ったフーガを基にした楽曲だからである。バッハはその場でただちに三声のフーガを作って弾き、王をはじめその場に居合わせた宮廷人たちを瞠目せしめたと伝えられている。
その三声を六声にした「六声のリチェルカーレ」は、「六声ということは、鍵盤楽器で演奏する場合、右手と左手がそれぞれ同時に動く三声ずつを担当すること」で、「バッハの直筆譜では二段のチェンバロ譜で書かれてい」るとのこと。
この「六声のリチェルカーレ」のエピソードは、本作の構図にもシッカリと凝らされていて、そもそもこの物語で語られている「事件」の様態は、最後の最後に「事件の探偵」である森本が思いいたる通りに、表面上は、「少年」とある人物二人の「三声」によるものに見えます。事件後のシーンを描き出した探偵的視点を凝らすことによって、そこから声部が増えていくのですが、それでもこの事件の探偵である森本はことタイトルになっている「五声のリチェルカーレ」、――すなわち、事件の本当の真相にまではたどり着くことはできません。この物語がタイトル通りの「五声のリチェルカーレ」であったことを知ることが出來るのは、この事件を外から「物語として」俯瞰できる本作の読者だけであるという結構も秀逸です。
この事件の探偵役となる人物は最終的にこの作品が「五声」であったことを見抜くことはできず、それによってこの構図の中心にいる人物――言葉を換えれば、もともとの物語の主題ともなっていた人物――は見えない人物へと反転してしまうという外連、さらにはこの真相開示によって「擬態」を行っていた主体がこれまた読者の予想を裏切るかたちで見事な反転を見せ、それによって冒頭から呈示されていた「生きていたから殺した」の真の意味合いが明かされる趣向も素晴らしい。
「右手と左手がそれぞれ同時に動く」という「六声のリチェルカーレ」のままに、「右手」「左手」で奏でられる二つのパートを同時に描きながら、それを複雑に交差させ、真相開示の時点で見事な消失を見せた主題の変容を活写する仕掛けもいい。
またタイトルは「五声のリチェルカーレ」でありながら、「六」章によって構成されているところが個人的にも興味深く、事件「そのもの」を見れば、「事件の探偵」が最後の最後で明かしている通りに、「三声」だと思っていたところに「事件に何かしらの役割を果たしていた人物」への「気付き」とともに「四声」であったことが明らかとなり、それによって物語の外にいる読者には、主題を奏でていた構図の中心人物が「五声」であったことが明らかにされる、――という結構ながら、この物語を「後日談」も添えた「本格ミステリ」として見ると、探偵役である彼もまたこの「本格ミステリである物語」の声部を兼ねていたことがハッキリしてくる譯で、「事件」としてはタイトル通りに「五声」ながら、これを仕掛けと推理、真相開示をも含めた「本格ミステリ」と見ると、「探偵」の声部を加えた「六声」になるのでは、……などと考えてしまうのも、本作が「五声のリチェルカーレ」であるにもかかわらず、真相開示である「六」章が添えられいるからで、主題を構図へと反映させる強固な縛りを徹底させた結果として見えてくる人工性もまた素晴らしい。
こうした章構成から読み解いていくと、……以下は若干ネタバレになりそうなので、文字反転しておきます。即興の「三声」を「六声」にしたという点から見ると、「四」章以降から「事件」を直線的にトレースしたものとは大きく異なる、人称に留意した「騙り」の技巧という変容が凝らされている構成も心憎い。自分はここに気がつかず、この仕掛けは予想しながらも、その予想された真相が明かされた瞬間、いったい何がいつ、どうなったのかが判らず、頭がグルグルしてしまった譯ですが、バッハの「六声のリチェルカーレ」の逸話が本作の技巧への「気付き」になっているという凝りに凝った趣向は深水ミステリならではでしょう。
バッハの「六声のリチェルカーレ」に着目した読みばかりをダラダラと語ってしまいましたが、こうした音楽ネタに絡めた事件の構図については、和モノ翻訳ミステリはもとよりSFまで広範なジャンルの作品を読みこなす一方、クラシック音楽のコンサートも繁く「徘徊」されているプロの評論家の深い考察を、個人的には期待したいと思います。
もうひとつ、「擬態」という点では、本作は「事件が起こって、探偵が捜査し、推理を行い、解決に導く」というコード型本格では「定番」ともいえるあからさまな結構をあえて採らず、一般的なミステリ小説に「擬態」しているところも面白い。また、そうしたところから見ると、特に「事件の探偵」が最後に思いいたる声部が事件の構図にどのように反映されているのか、――などを考えると、何となーくかつての「論争」を思い出してしまうところなど、色々な意味で愉しめる一冊でありました。
最後に本作を読了して、最近読んだ作品の中でもっとも近いものは、と訊かれたら、自分の場合、この作品、と応えると思います。つまりそれだけ心してかからないと、アッサリと騙されるよ、またこの仕掛けを予想出來ても見抜けないよ、という細やかな技巧を凝らした逸品ゆえ、深水ミステリのファンのみならず、あの作品のような風格が好みの現代本格ファンにも強くオススメしたいと思います。