傑作。あらすじからは「囁き」シリーズみたいな感じかナ、なんて思わせておいて実は「十角館」だったという驚きの仕掛けを凝らした逸品で大いに堪能しました。
ところで本作、自分は本格ミステリとして読んだのですけど、どうも版元をはじめ業界人の方々は本作を本格ミステリというよりはどちらかというとホラーとして売りたいような空気を何となーく感じている次第でありまして、……果たして本格ミステリとして本作を読み解くという行為が正しいものなのかどうか甚だ心許ないものの、とりあえず「囁き」シリーズのようでいて実は「十角館」だったと感じた所以についてなどを以下に語ってみたいと思います。
物語は、――田舎の学校に転校してきたボーイがクラスの異様な雰囲気を気取りながらも眼帯娘に惹かれていく。噂によると何でもこの学校では過去に奇妙な出来事があったらしく、「呪い」とも何とも知れない異様な現象に脅える生徒をよそにクラスメートが一人また一人と不審死を遂げていき、……という話。
前半は、果たしてこの眼帯の不思議娘は幽霊なのかそれとも……というあたりを縦軸の謎として進んでいくのですけど、中盤にいたって、この娘の正体と、学校にまつわる奇妙な噂や過去の事件が徐々に明らかにされていき、物語は何とも不可解な方向へと進んでいきます。
事故としか思えない人死にが続発するという点では、そうした個々の事件に焦点を合わせてフーダニットとハウダニットを突き詰めていくというのが本格ミステリの定石ながら、本作の優れているところはホラーの外観を装うことでそうした「読み」を読者の意識からしっかり取り除いてみせているところでありまして、こうしたホラー的な展開から読者の視点と関心は各の事件より、そうした事件が発生している世界へと向けられるような結構となっています。
本作はホラーの外観を装っているとはいえ、じわりじわりと怖さが増していくような風格でもなく、かといって上にも述べたように、人死にがあるごとに劇的な盛り上がりや登場人物たちの不信を募らせるような展開を採っているわけではありません。語り手であるボーイの、ある種、淡々飄々とした性格づけがそうした雰囲気を作中に生じさせることに寄与していることは確かなのですが、この「戦略」が最後の最後に明らかにされる仕掛けに大きく絡んでいるところも秀逸です。
続発する人死にの原因については、過去の事件と「呪い」としかいいようがないようなトンデモない「事実」が明らかにされていくのですが、このトンデモなさは「謎」を「論理」や「法則」によって解き明かすという本格ミステリ的な結構を破壊してしまうようなものでもありまして、果たしてこれで最後の「フーダニット」に解を見いだすことは可能なのかと本格ミステリの読者であればあるほど、頭が混乱してしまうに違いありません。
このあたりをちょっとでも語るとネタバレになりそうなので、可能な限りそのあたりに注意しながら以下にこの作品が採った戦略について語ろうと思います。とはいえ、マッタク先入観なく取り組みたい方はスルーしていただければと。
本作のフーダニットの眼目は、「誰が復活した死者なのか」というところに絞られてくるわけですが、学校を取り巻くこの世界では、事件の渦中にいる人間の記憶も、世界を構成している要素も時の経過によって改竄されてしまっていることが中盤を過ぎたあたりから明らかにされていきます。しかし記憶も、そして今見えている世界も改竄されているとすれば、一体何を手掛かりにその人物を特定すればいいのか、――本作の、「本格ミステリ」としての醍醐味はそこにあるといってもいいでしょう。
この作品では、世界の外部からやってくる人物が語り手となっています。すなわち語り手が外部の人間である限り、事件を外部の視点から俯瞰できる唯一人の人物として、この語り手はもっとも「探偵」に相応しい筈なのですが、物語も中盤にいたって、件のボーイもまたこの世界の法則の渦中に取り込まれてしまいます。
こうして「探偵」を期待されていた外部の人間であるボーイが無力化されてしまった後、超常能力を持ったある人物だけはこの死者を見分けられる「探偵」としての能力を持つことが明かされるのですが、本作ではこの人物もまた件の超常能力を発揮して「犯人」を突き止めることはありません。では、記憶も、この世界を構成している要素もまた推理の手掛かりとはなりえないなか、「犯人」へ辿り着くための伏線は作中にどのように鏤められ、またどのような方法によってそれを成し遂げたのか、――というあたりが本作の「本格ミステリ」としての読みどころでしょう。
――と、ここまで説明してようやくこの作品と「十角館」を比較できるわけですが、本作を読まれた方で、「十角館」を読んでないという方はまあ、まずいないと思うので、話を続けますが、「十角館」における「フーダニット」の仕掛けには、二つの「世界」を重ね合わせたときに生じる間隙に容疑者となりえる人物を隠蔽する、――という技法が活かされています。
「十角館」における仕掛けは、いうなれば、「いかにして犯人を、読者の頭の中にある容疑者リストから排除してみせるか」という戦略から成り立っているともいえます。これが原理主義者の書いたコード型本格であれば、読者の頭の中の容疑者リストに犯人がいることはすでに織り込み済みで、そこからいかにして読者の視線を容疑者リストにある別の人物に向かわせるかという誤導に腐心するわけで、「十角館」はそうした従来の仕掛けや結構とはそもそも戦略と立脚点が大きく異なります。
で、その容疑者リストから完全に除外してしまうために「十角館」が採った技法が、上に述べたような、二つの「世界」を重ねることでそこに間隙を生じさせる、というものでありまして、――本作でも「十角館」にも通じる二つの「世界」を用いた大仕掛けが用意されています。しかもその仕掛けは「十角館」以上にさりげなく、また周到に隠されている。
「十角館」では二つの「世界」が併置されていることは明確に語られています。しかし現代本格に読み慣れた読者が今、この作品を読んだとすれば、おそらくはこの二つの「世界」の重なりに何か仕掛けがあるのだろうと考えてしまうことでしょう。そこで本作が採用したのは、二つの「世界」の境界線をずらしてみせるという方法です。
この二つの「世界」というのは、いうなれば事件が発生している学校の「内部」と「外部」ということになるわけですが、探偵候補である「境界線」の外からやってきた語り手はやがて「内部」に取り込まれてしまう。この変転は同時に、真に隠された「世界」の「内部」と「外部」の境界線を隠蔽する仕掛けにもなっているところが素晴らしい。
この真の「境界線」に気がついて、この異様な「世界」の法則の「外部」から手掛かりを手に入れない限り、本作の「犯人」を推理することはできません。そもそも推理の前提条件となる記憶とこの世界を構成している要素はたやすく改竄されてしまうわけですから。実際、最後の最後で語り手は「外部」からの声をヒントにイッキに真相へと辿り着くのですが、不穏な空気を交えつつ淡々と進められる物語の展開は読者に「境界線」の位置を気取らせないような効果もあげています。
そうなると、読者は「世界」の内部にあるすでに改竄されてしまった要素の中から推理をするしかありません。しかし上にも述べた通り、これでは真相に辿り着くことはできない、というか実際、自分もこの仕掛けに見事にハマって袋小路に入ってしまったわけですが……。
いいかえると、本作は、推理の端緒となる法則も論理も溶解した世界において、どのような方法で犯人を見つけ出すのか、という物語でもあります。これは、新本格以降書き継がれてきたSFミステリの風格とも大きく異なる。SFミステリにおいては独自の論理を成立させるために構築された「世界」が、本作では逆に論理と法則を排除するためのものとして成り立っている。またこうした結構はSFではなくホラーの外観と展開を持たせたこととも大きく関係していると推察されます。そうしたところからも、本作は破格にして新本格以降の現代本格としても非常に独創的な作品であるといえるのではないでしょうか。
というわけで、「僕にとって本格ミステリとホラーは両輪であっで、どちらか一方が、ということはありえない」と語る綾辻氏の本領が、「十角館」「霧越邸」「暗黒館」を経て、ついに新境地を切りひらいた傑作で、綾辻ファンのみならず、現代本格のマニアにも必読の一冊です。オススメ、でしょう。